商船の改装
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予算案の成立に続いて、ジュダ・ベンジャミン陸軍長官はニューオーリンズの軍管区司令官マンスフィールド・ラヴェル(英語版)陸軍少将に宛てて電報を送り、軍事転用のために14隻の汽船を接収せよと命じた。これはラヴェルによる河川防衛艦隊への最初の関与であり、彼はすぐに最も執拗かつ苛烈な批評者となった。ラヴェルは艦隊が負った変則的な役割に反発し、「ミシシッピ川の14人の船長と水先案内人たちは、一旦仕事に手を付けたなら、何についても口出しを許しはするまい」(Fourteen Mississippi River captains and pilots will never agree about anything once they get underway.)と述べた。ラヴェルは命令に従い、連合国政府の名の下に14隻の汽船を調達した。後に陸軍省の意図を汲んだラヴェルによって、このうち何隻かが別の船舶に入れ替えられたが、隻数自体は14隻を保った。 各船舶は、船首内をオークの無垢材で満たし、前方20フィート(6.1m)の外装をオーク材で板張りした上、これを厚さ1インチ(25mm)の切断された鉄道用軌条で覆うこととされた。エンジンは二重隔壁で防護された。内側の隔壁は、松梁材から成り、1辺12インチ(30cm)の正方形だった。外側の隔壁も同じ梁材から成り、6インチx12インチ(15x30cm)の長方形だった。 外側の隔壁は船首と同様、厚さ1インチ(25mm)の切断された鉄道用軌条で覆われていた[要出典]。これらの隔壁の間には22インチ(56cm)の隙間があり、圧縮された綿が詰め込まれていた。綿は装甲の構成において必ずしも重要な部分ではなかったものの、大衆の興味を引き、同種の装甲を採用した船舶は装甲艦(Ironclads)をもじって「装綿艦(英語版)」(Cottonclads)と通称されるようになった。 いわゆる装綿艦の改装のために、1862年3月16日から4月17日までの1ヶ月間が費やされた。同じ頃、偶然にもデヴィッド・ファラガット海軍大佐が率いる北軍艦隊が下流で集結し、ニューオーリンズ攻撃の準備を整えつつあった。河川防衛艦隊は、改装を終え次第アイランドNo.10およびメンフィスの防衛の援護に割り当てられる予定だったが、ラヴェルが陸軍省を説得し、完成した最初の6隻を自らの指揮下でニューオーリンズ近くに残すことを認めさせた。完成した最初の6隻は、ストーンウォール・ジャクソン(英語版)、ウォリアー(CSS Warrior)、ディファイアンス(CSS Defiance)、レゾリュート(CSS Resolute)、ジェネラル・ブレッキンリッジ(CSS General Breckinridge)、ジェネラル・ラヴェル(英語版)と命名された。この時までに、タウンゼントは艦隊を離れていた。モントゴメリーが北部に向かう集団の指揮官に選ばれた後、ニューオーリンズに留まる6隻の指揮は別の河川船舶船長ジョン・A・スティーブンソン(John A. Stephenson, 姓はStevensonと綴られることもある)が執ることとなった。残りの8隻、すなわちジェネラル・ブラッグ(英語版)、ジェネラル・スターリング・プライス(英語版)、ジェネラル・アール・ヴァン・ドーン(英語版)、カーネル・ラヴェル(英語版)、ジェネラル・ボーリガード(英語版)、ジェネラル・M・ジェフ・トンプソン(英語版)、リトル・レベル(英語版)、ジェネラル・サムター(英語版)は、いずれもメンフィスへと向かうこととされた。最後の装綿艦が完成したのは4月17日で、ジャクソン砦およびセントフィリップ砦への砲撃が始まるわずか1日前であった。 装綿艦はもっぱら衝角攻撃に用いることが想定されていたので、武装は最小限であり、各艦にはわずか1門ないし2門の砲のみが搭載されていた。また、船長らは操砲訓練に時間を割くこともしなかった。そのため、陸軍の砲兵が各艦に配属されていたのだが、彼らは乗艦後も船長ではなく陸軍将校の指揮下に留まっており、指揮命令系統に混乱をきたす原因となった。
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