商船航海士時代
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/09 13:02 UTC 版)
「アーネスト・シャクルトン」の記事における「商船航海士時代」の解説
シャクルトンの落ち着きのない学校生活は、16歳のとき退学し船員になることを許されて終わった。その選択肢は、シャクルトン家に余裕は無かったが、「HMS ブリタニア(英語版)」の海軍士官候補生になる、または商船員訓練船の「ウォースター(英語版)(Worcester)」か「コンウェイ(英語版)(Conway)」に乗る、もしくは帆船の「水夫("before the mast")」見習いになることで、3番目の選択肢が選ばれた。父親がノース・ウエスタン・シッピング・カンパニー(North Western Shipping Company)への就職を見つけてきて、シャクルトンはスクエア・リグ(英語版)の帆船「ホートン・タワー(Hoghton Tower)」の船員となった。 続く4年間の船員生活で、シャクルトンは地球の隅々を訪れ、多くの階級の人々と人脈と作り、あらゆる種類の人間についてよく学びながら、手に職を付けた。1894年8月、2級航海士(英語版)の試験に合格し、ウエルシュ・シャイア・ライン(Welsh Shire Line)の不定期貨物船(英語版)で3等航海士(英語版)となる。2年後、1級航海士(英語版)の資格を獲得、1898年には世界中どこでもイギリス船を指揮できるマスター・マリナー(英語版)として認証された。 1898年、シャクルトンは、サウサンプトン・ケープタウン間で郵便および旅客輸送の定期便を運航するユニオン=キャッスル・ラインに入社した。彼は「普通の若い航海士とはかけ離れていて」、必ずしも打ち解けていないとは言わないが会社に満足し、「キーツやブロウニングの詩を朗読し」、感受性と攻撃性が入り混じっているが思いやりもあった、と同僚が書き残している。1899年に第二次ボーア戦争が勃発すると、シャクルトンは兵員輸送船「ティンタジェル・キャッスル(Tintagel Castle)」へ転属となり、同船で1900年3月に、ロンドンで組織中のディスカバリー遠征のメインスポンサーであるルーエリン・W・ロングスタッフ(英語版)の息子、セドリック・ロングスタッフ(Cedric Longstaff)陸軍中尉と知り合った。シャクルトンは遠征隊へ参加するため、息子との知己を活かしてロングスタッフの面接を受けた。ロングスタッフはシャクルトンの熱心さに感動して、シャクルトンが合格することを望んでいることが明らかである遠征隊の責任者、クレメンツ・マーカムへ推薦した。1901年2月17日、シャクルトンは遠征隊の船「ディスカバリー号」の3等航海士へ登用され、7月4日、海軍予備員の海軍中尉(英語版)に任官した。公式にはユニオン=キャッスル社から休暇を貰った形であったが、実際にはシャクルトンの商船員生活はここで終わりを告げた。
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