咸鏡道と二番隊
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/18 18:42 UTC 版)
二番隊・加藤清正らは6月1日に開城を出発すると、6月17-18日に安辺に到着し、そこから東海岸に沿って北へ進撃を開始した。この間に占領した城の一つが咸興である。ここで二番隊の一部は防衛と民政に当たることとなった。 清正はさらに北上する意思を固めて安辺に留めていた鍋島直茂を咸興へ呼び寄せる。直茂はこれを受けて7月1日に安辺を出発した。 7月17日-18日、二番隊の一部10,000人 はさらに北進を続け、7月17日には韓克諴(咸鏡北道兵使)が率いる咸興道の北軍および南軍と、城津(現在の金策)にて戦った。朝鮮の騎兵部隊が騎射戦法により城津の平地で優位に立ち、日本軍は穀物倉庫を盾にしてこれを防いだ。日本軍は倉庫にあった米俵を用いて障壁を作り、騎兵の突撃を火縄銃で撃退した。朝鮮軍が翌朝に再度の攻撃を掛けようと計画している間に、加藤清正は伏兵を潜ませて朝鮮軍を待ち受け、二番隊は沼地に面する部分を除いて完全に朝鮮軍を包囲し、撃破した(海汀倉の戦い)。敗北した朝鮮軍では元喜(富寧府使)らが戦死し、韓克諴は死傷者を捨て鏡城へ逃亡した。 詳細は「海汀倉の戦い」を参照 7月17日には鍋島直茂が清正の留守を守るため咸興に入った。逃げた朝鮮軍の兵士が他の守備隊に敗報を伝えたため、他の守備隊は日本軍を恐れるようになった。そのことも手伝って日本軍は容易に吉州、明川、鏡城を占領した。7月23日、二番隊は会寧に入り、そこで加藤清正は、日本側に寝返った朝鮮の府使鞠景仁や地元住民によって既に捕らえられていた2人の王子(臨海君、順和君)、さらにその従臣である金貴栄、黄廷彧、黄赫(黄廷彧の子)、李瑛(会寧府使)、李銖(穏城府使)、李弘業(鏡城判官)、文夢軒(会寧府使)、柳永立(咸鏡道観察使)等20余人を捕虜として受け取った。李渾(咸鏡南道兵使)の首も地元住民から日本軍に送られた。海汀倉の戦いの朝鮮軍指揮官で敗北後に逃亡していた韓克諴(咸鏡北道兵使)も日本軍に捕らえられ、ここに咸鏡道は尽く平定された。 7月23日、朝鮮の二王子を捕縛するために、9000の兵で北進していた加藤清正は、会寧で王子らを捕縛。 咸鏡道では、以前から、中央から派遣された官僚と地元民(朝鮮人+女真族)との間がうまくいっておらず、しばしば争いが起こっていた。咸鏡道はまた左遷地・流刑地でもあり、左遷人・流刑人たちは中央に不満を抱く地元民と結び付いた。さらに咸鏡道出身者は科挙に受かっても官職に就けないという差別があり、咸鏡道は朝鮮に不満を抱く者たちの温床になっていた。加藤清正は咸鏡道を「日本にては八丈が嶋、硫黄が嶋などの様なる流罪人の配所」と報告している。 清正は咸鏡道北部の地質の悪さと物産の少なさを見て、長期間留まる土地ではないと判断し、明川とそれ以北からの撤退を決めた。9月、清正は安辺へ、鍋島直茂は咸興へ入った。吉州・海汀倉(金策)・端川・利原・北青・洪原に、それぞれ500人から1500人の兵を置き、安辺には清正の兵3000余りを置いた。咸興・永興・徳原には鍋島直茂の兵12,000を置いた。 転戦の後、日本軍は内政に努めた。清正は、撤退後の土地を寝返ってきた朝鮮人に管理させるなど、一部地域に朝鮮人の自治を認めた。 11月、日本軍の吉州守備隊の一部が、租米を徴収するために城外に出ていた。これを知った朝鮮義兵鄭文孚率いる3000の兵が日本軍を攻撃、吉州守備隊は吉州城に撤退、朝鮮軍は吉州城を包囲した。 11月10日、咸興の戦い。咸鏡道巡察使尹卓然は咸鏡南道で兵を募り、鍋島直茂本陣を攻撃しようと企て、独山のふもとに集結し陣を構えたが、鍋島勢が先手を打ってこれを襲撃し1千人を討ち取った。朝鮮軍の敗残兵は元平の山地に逃れ、再び兵を募り、1万5000人に膨れ上がったと豪語した。鍋島勢は出撃し再び朝鮮軍を破り営舎を焼き払った。その後、咸興付近では住民の蜂起は起こらなかった。 12月、海汀倉(現在の金策)の日本軍守備隊400が臨溟駅に向かったが、双浦で鄭文孚らの義兵が迎え討ち、吉州守備隊は海汀倉へ退いた。 文禄2年(1593年)1月23日、端川の戦い。鄭文孚らが率いる朝鮮義兵が端川の日本軍守備隊を襲うが、援軍が到着した日本軍が鄭文孚ら朝鮮軍を撃破した。 文禄2年(1593年)1月28日、白塔郊の戦い。文禄2年正月、吉州城の日本軍が南へ撤退を始めた。これを知った鄭文孚率いる朝鮮軍3千人余りが日本軍を攻撃したが、吉州の南方約8kmの白塔において日本軍が迎え討ち、朝鮮軍を撃退した。
※この「咸鏡道と二番隊」の解説は、「文禄・慶長の役」の解説の一部です。
「咸鏡道と二番隊」を含む「文禄・慶長の役」の記事については、「文禄・慶長の役」の概要を参照ください。
- 咸鏡道と二番隊のページへのリンク