和田家への入婿、和田哲社長(会長)兼エッセイスト
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「和田亮介」の記事における「和田家への入婿、和田哲社長(会長)兼エッセイスト」の解説
大学を卒業した1954年、木幡亮介は東洋レーヨンに就職したが、数年後、父吹月の強い勧めと、大阪船場で繊維問屋「和田哲」を営む和田哲夫の懇請により和田家に入婿し、和田亮介となる。本人は後年この入婿に至った経緯について、実は吹月が社長を務める島根新聞社(山陰中央新報社の前身)の増資先としての和田哲に「六万株(当時で三百万の株券)とトレード」された、つまり実父そして孫娘の婿を切望する和田哲夫の罠にかかってしまったと、笑い話に語っている。 1961年和田哲に入社。義祖父となった和田哲創業者の和田哲夫から、スパルタ式に船場の商いの奥義、経営哲学を伝授された。義祖父の他界、義父(二代目社長)の相次ぐ逝去により、1975年に和田哲三代目社長に就任。後に手掛けた著書のなかの一冊のタイトルが示す通り「乱世」の時代を乗り切り、会長に退く2000年までの長きに亘り、社業と業界全体の発展に尽瘁した。 実家である木幡家の血筋(永井瓢斎が大伯父、木幡吹月が実父、また実兄は朝日新聞記者を経て山陰中央新報社の社長を務めた)にもよるのであろう。和田哲三代目社長に就任して間もなく、亡き義祖父による教えの日々を綴った追悼録を業界紙「寝装新聞」に連載。義祖父から伝授された船場の商いの心、そして商都大阪の古き良き商習慣を巧みな筆さばきで鮮やかに描き出したそれらのエッセイは、業界を超えて好評を博す。朝日新聞論説委員で「天声人語」を担当した荒垣秀雄に「船場商人の商売哲学を目の前に見る如くいきいきと描いた」、「読み出すと面白くて巻を措く能わず」と激賞され、1976年に『扇子商法―ある船場商人の遺言』として日本寝装新聞社から出版されることとなった。日本史・経済史研究者の宮本又次も和田の「平明達意、ユーモアをたたえ」かつ「文雅」漂う文章にうなるとともに、「著者は商いのうえでの直弟子として、一話一言、見事に受け止めている。「ある船場商人の遺言」はそのままに大阪商法を如実に示現していて、あまねく語りつぎ、いい残さるべき普遍性ある遺言をなしている」(「週刊読書人」1149号/1976年9月)と評した。幾度も版を重ね、その後は創元社、さらに中公文庫からも出版されている。本書によって、義祖父和田哲夫は「最後の船場商人」として人々に広く記憶されることとなった。なお、本書タイトルにあり、現在では大阪船場の普遍性のある商法をあらわす代表的表現となった「扇子商法」は、伝統的に船場で使われてきた表現ではなく、筆者自身の発想によるということだが、船場の哲学・美学を言いえて妙である。 『扇子商法ーある船場商人の遺言』以降、和田亮介は、さらに船場商人の歴史や経営哲学を体験的に描いた『三代目まんだら』『船場の目』『船場からくさ』『船場往来』『乱世を生きる経営』『あきない夜噺』『船場吹き寄せ』など多数の随筆集を世に出した。芸道に通じ、その出自から立ち居振る舞いや趣味に美意識を有した和田は、品格ある大阪船場の商いの語り部、講演者としても定評があった。 人望厚く、1991年大阪織物卸商業組合理事長就任、またテレビ大阪番組審議会委員長を務めるなど、和田亮介は強い責任感と優れた才覚で、大いに大阪の経済文化の発展に貢献した。96年藍綬褒章受章、99年大阪文化功労賞受賞。故郷愛もことのほか強く、近畿から島根県・松江市の応援団リーダーとして陣頭指揮をとった。
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