周辺古墳との比較と丹後の繁栄時期
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「大谷古墳 (京丹後市)」の記事における「周辺古墳との比較と丹後の繁栄時期」の解説
丹後にある主な墳丘墓・古墳の規模と築造時期 年代古墳名墳形・墳長その他データ2世紀後半 大風呂南墳墓群2号墳(墳墓群中最古) 卓状墓:22x18メートル 2世紀末-3世紀初頭 赤坂今井墳墓 台状墓:東西32メートルx南北39メートル 弥生時代の古墳としては国内有数の大型墳墓、国の史跡 3世紀後半 涌田山1号墳 帆立貝式前方後円墳:墳丘長約100メートル 府指定史跡 4世紀初頭 白米山古墳 前方後円墳:墳丘長90メートル 国の史跡 4世紀中頃-後期 蛭子山古墳 前方後円墳:墳丘長145メートル 国の史跡 4世紀後半 網野銚子山古墳 前方後円墳:墳丘長198メートル 日本海側最大の前方後円墳、国の史跡 4世紀末-5世紀初頭 神明山古墳 前方後円墳:墳丘長190メートル 国の史跡 5世紀前半 黒部銚子山古墳 前方後円墳:墳丘長105メートル 府指定史跡 5世紀中頃 産土山古墳 円墳:直径55メートル 国の史跡 5世紀中頃 離湖古墳 方墳:34x43メートル 丹後は弥生時代後期に列島内外との交流を通じて独自の勢力圏を築き上げる。この時期は倭国大乱によって瀬戸内海の交易ルートが細くなっており、丹後を経由して大陸物資が畿内や東海にもたらされたと考えられる。丹後は耕作可能な土地が少なく農業生産力は限られているが、中国や朝鮮半島との鉄製品やガラスなどの交易や先進技術によって急速に発展していった。丹後系の土器は北近畿一帯に広がり、大風呂南墳墓・赤坂今井墳墓という王墓とも称される傑出した墳丘墓が出現し、後期末に繁栄は頂点を迎える。 弥生時代後期の伝統をひく方形墳は古墳時代前期に入っても引続き構築されている。大型の前方後円墳が出現する以前の古墳時代前期前半では、楕円形の大型円墳が王墓と考えられている。温江丸山古墳で三角縁神獣鏡や碧玉製腕飾りが出土しており、ヤマト政権との関係が示唆される。円墳に短い前方部がつく墳長100メートルの湧田山古墳は、ホケノ山古墳などと同形の纒向型前方後円墳とも目される。 丹後が繁栄した時代は2世紀後半から5世紀後半の約250年と考えられ、黒部銚子山古墳を最後に丹後では巨大な前方後円墳が作られなくなり、産土山古墳や離湖古墳といった規模が小さい円墳や方墳が作られるようになった5世紀末と第21代雄略天皇の代とが重なるこの時期が丹後のターニングポイントとなったと考えられる。雄略22年日本書紀によると浦嶋子が常世の国へ行った(最古の浦島伝説)と記される年に当たる。又、同年、伊勢神宮の社伝(止由気宮儀式帳)によると雄略天皇は神託により豊受大神を外宮へと遷宮をする。(京丹後市峰山町の比沼麻奈為神社が本地とされる)雄略天皇は吉備氏を始め各地のの有力氏族を討つ、屈服させ、それを境に丹後に限らず地方の大型前方後円墳は築造されなくなった。丹後が最も栄えたであろう古墳時代前期に作られた大谷古墳は規模、築造時期などから網野銚子山古墳、神明山古墳と続く最高首長に連なる在地の小首長の墳墓と解される。
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