周辺勢力との争い
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/10/05 15:36 UTC 版)
「ミトリダテス6世」の記事における「周辺勢力との争い」の解説
王位についたミトリダテス6世は黒海及びアナトリア地方へ領土を広げる野心を持つようになる。まずは紀元前101年までに黒海東岸にあったコルキス王国(現在のグルジア)を征服。またスキタイの脅威に直面していたクリミアのタウリカ及びボスポロス王国に対して、ミトリダテス6世はスキタイの脅威から防衛すると約束し、両国は見返りにミトリダテス6世の傘下に入った。 ポンティック・ステップでの勢力争いもあって、スキタイは数次に亘ってクリミアへ侵攻したものの失敗、次いでスキタイと同盟していたサルマタイ人と戦い、ディオファントス率いるポントス軍がこれを大いに破って、スキタイ及びサルマタイにもミトリダテス6世を盟主とすることを受け入れさせた。 黒海周辺を概ね制覇したミトリダテス6世はローマの影響力が増しつつあるアナトリア地方へ触手を伸ばし、ビテュニア王ニコメデス3世と共謀してパフラゴニア(英語版)及びガラティアを分割支配することを企んだが、ビテュニアがこれに反してローマと同盟を結び、ミトリダテス6世への対抗姿勢を鮮明にした。また、カッパドキアの支配権を巡る戦いでビテュニアを破ったが、ビテュニアに対して紀元前95年及び紀元前92年の2度に亘ってローマが公然と支援していたことから、ローマとポントスの戦いは必至の情勢となった。 紀元前94年にニコメデス3世が死亡、後継として息子のニコメデス4世が即位したものの、ローマによる傀儡政権であったことから、ミトリダテス6世はニコメデス4世の打倒を企てた。ここに至り、ニコメデス4世はポントス王国に対して宣戦を布告(ローマによる煽動もあった)。ミトリダテス6世は軍を率いてマルマラ海を抜けてビテュニアへ侵攻した為、ニコメデス4世は即座に逃亡した。 ポントス王国はイオニア(ギリシア)系とアナトリア系の都市から構成されていたが、王族は首都がギリシア系住民の多く住むシノーペへ移されて以降は完全にギリシア化していたこともあって、ミトリダテスはキュロス2世、ダレイオス1世、セレウコス1世、アレキサンダー大王の如くギリシア世界とペルシアを含む東方世界の融合を目指すことを誇称、ミトリダテス6世自身もヘレニズム世界の王者を自称した。但し、結果的にはミトリダテス6世の持つ野心を実現する為のプロパガンダに過ぎなかった。 とは言え、ギリシア人にとってはミトリダテス6世の心の内が何であれ、黒海沿岸や東方世界、そしてローマといった「蛮族」からギリシアを守ると宣言したポントス軍に対しては、ロドス島でローマ軍を包囲した際にアテネを含むギリシア都市がミトリダテス6世の軍を歓迎したように、ミトリダテス6世に対して一定の支持を与えた。 また、同年にはポントスと隣接するアルタクシアス朝(アルメニア王国)のティグラネス2世へ娘のクレオパトラを嫁がせ、アルメニアとも同盟関係を締結した。
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