呉人としての倭人とは? わかりやすく解説

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呉人としての倭人

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/01/03 05:21 UTC 版)

倭人」の記事における「呉人としての倭人」の解説

現在では、紀元前450年頃の、つまり春秋時代(「呉越同舟」で有名な呉越戦争の時代で、呉が滅亡した時期)の組織的な大規模な水田跡が九州で見つかっており、また、倭人は周の子孫を自称した。」という記録もあることから、長江文明象徴でもある水耕稲作文化揚子江一帯の呉人が紀元前5世紀頃、呉王国滅亡とともに大挙して日本列島漂着していたという説も有力になっている春秋時代の呉人は百越のひとつでもある。 『宋書』楽志「白紵舞歌」というものがあり、その一節に「東造扶桑紫庭 西至崑崙戯曽城」(東、扶桑造り紫庭に游び、西、昆崙に至りて曾城に戯る。)とある。この「(白)紵」というのは呉に産する織物であった近年遺伝子分析技術発達によって、筑紫地方『日本書紀』の「国生み」)と、呉人は極めて関係が深いということ明らかになってきた(日本人#系統参照)。1999年3月18日東京国立博物館江南人骨日中共同調査団山口敏団長)によって「江蘇省の墓から出土した六十体(二十八体新石器時代十七体が春秋戦国時代十五体が前漢時代)の頭や太ももの骨、 歯を調査。特に、歯からDNA抽出して調査し福岡山口両県で出土した渡来系弥生人縄文人人骨比較した結果春秋時代人と前漢時代人は弥生人酷似していた。DNA分析では、江蘇省徐州近郊梁王遺跡春秋時代末)の人骨の歯から抽出したミトコンドリアDNAの持つ塩基配列一部が、福岡県太宰府の隈西小田遺跡人骨DNA一致した発表された。 『日本書紀』の「国生み」での「筑紫」の国名命名では、「漢委奴国王印」が発掘され志賀島一帯地名香椎カシ〈現在は「かしい」〉)は、百越地帯としての「越(コシ)」の訛りとされる元明天皇時代には、百越人の住む地帯『古事記』でも「コシ(越)」と読んだことから、北九州百越人の一部族である「(春秋時代の)呉人の住み着いた場所」とされるまた、「越」は山陰地方名として『日本書紀』の「国生み」で登場するまた、律令制度では越国越後越中能登加賀越前)として画定された。「越」は「高志」「古志」とも表記された。 「越人」も「呉人」も、どちらも百越人」と呼ばれ長江文明稲作水稲文明日本もたらした弥生人一種といえ、春秋時代末期に「越」によって滅ぼされた「呉」の海岸沿いの住人たちには入れ墨文化があり(荘子内篇第一逍遙遊篇)、これは魏志倭人伝などの倭人風俗類似したもので、呉人が海路亡命し漂着したという説も有力である(安曇族参照)。 崎谷満Y染色体ハプログループO1b1/O1b2系統長江文明担い手としている。長江文明衰退に伴い、O1b1および一部のO1b2は南下し百越呼ばれ残りのO1b2は西方および北方へと渡り山東半島日本列島渡ったとしており、このO1b2系統が呉や越に関連する倭人考えられる

※この「呉人としての倭人」の解説は、「倭人」の解説の一部です。
「呉人としての倭人」を含む「倭人」の記事については、「倭人」の概要を参照ください。

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