呉佩孚の腹心
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父の于文孚は宋慶率いる毅軍の幇統であった。于学忠も幼年時代から父に従って毅軍に加わり、1904年(光緒30年)、毅軍の随営学堂を卒業した。次いで1908年(光緒34年)に通州速成随営学堂歩兵科に入学し、1911年(宣統3年)に卒業している。 毅軍を率いる姜桂題のもと、熱河省に進出。民国元年の中華民国成立後、同地に土着した毅軍で于学忠は昇進を重ね、排長、連長、1914年、林西鎮守使の米振標の下で鎮守使署副官長となり、6月に中校に昇進。1917年、父の元部下で湖北省・襄陽の第18混成旅旅長を務める趙栄華より砲兵営長就任の誘いがあり、翌年8月に転属。安直戦争では呉光新の部隊の武装解除に携わった。 1921年7月、川軍の熊克武が宜昌に進攻し、第18混成旅は両湖巡閲使を務める直隷派有力者の呉佩孚の命で盧金山の湖北第3旅とともに援軍に向かった。于学忠は宜昌で奮戦し、その様子を艦上より観戦していた呉佩孚の激賞を受ける。同郷であったことから呉佩孚の信任を受け、翌1922年(民国11年)、趙栄華が攻命により更迭させられると、呉佩孚により後任の旅長に任命され、四川省で転戦する。1925年(民国14年)10月、武漢で呉佩孚が14省討賊聯軍総司令を称すると、于学忠は第26師師長に任命されている。1926年(民国15年)10月、国民革命軍により武昌を失陥させられた呉佩孚が河南省へ撤退すると、于学忠もこれに随従し、河南で第9軍軍長兼荊襄警備総司令に任ぜられた。1927年(民国16年)2月、南陽で抵抗を続けていた樊鍾秀を撃退。しかしその間にも2月8日、安国軍(中国語版)大元帥の張作霖は呉佩孚が武漢を奪還できないことにしびれを切らし、「援呉」を名目として河南省進出を宣言、韓麟春・張学良率いる第3・4方面軍、および張宗昌率いる直魯聯軍が迫りつつあった。呉佩孚は奉天派との徹底抗戦を主張する靳雲鶚に後を任せて下野した。その際、于学忠は呉佩孚直属の部隊の指揮権を任されたが、「張学良になら投降してもいいが、蔣介石には投降するな」と厳命された。その後、南陽にいたが、5月15日、各地で民衆の襲撃を受けて逃げ回っていた呉佩孚が身を寄せてきた。呉佩孚とともに四川に逃れる事にしたが、大部隊を連れていくことで地元との衝突を恐れ、少数の衛隊団だけを連れていくことを提案、呉佩孚もこれに同意し、ともに軍服を脱いで四川に渡った。
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