呉佩孚の腹心とは? わかりやすく解説

呉佩孚の腹心

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/06/04 14:37 UTC 版)

于学忠」の記事における「呉佩孚の腹心」の解説

父の于文孚は宋慶率いる毅軍の幇統であった于学忠幼年時代から父に従って毅軍に加わり1904年光緒30年)、毅軍の随営学堂卒業した次いで1908年光緒34年)に通州速成随営学堂歩兵科入学し1911年宣統3年)に卒業している。 毅軍を率い姜桂題のもと、熱河省進出民国元年中華民国成立後同地土着した毅軍で于学忠昇進重ね、排長、連長1914年林西鎮守使の米振標の下で鎮守使署副官長となり、6月中校昇進1917年、父の元部下湖北省襄陽の第18混成旅旅長を務める趙栄華より砲兵営長就任誘いがあり、翌年8月転属安直戦争では呉光新部隊武装解除携わった1921年7月、川軍の熊克武宜昌進攻し、第18混成旅は両湖巡閲使を務め直隷派有力者呉佩孚の命で盧金山湖北第3とともに援軍向かった于学忠宜昌奮戦しその様子を艦上より観戦していた呉佩孚激賞を受ける。同郷であったことから呉佩孚信任を受け、翌1922年民国11年)、趙栄華が攻命により更迭させられると、呉佩孚により後任の旅長に任命され四川省転戦する。1925年民国14年10月武漢呉佩孚14省討賊聯軍総司令称すると、于学忠は第26師長任命されている。1926年民国15年10月国民革命軍により武昌失陥させられ呉佩孚河南省撤退すると、于学忠もこれに随従し、河南第9軍軍長警備総司令に任ぜられた。1927年民国16年2月南陽抵抗続けていた樊鍾秀撃退。しかしその間にも2月8日安国軍(中国語版大元帥張作霖呉佩孚武漢奪還できないことにしびれを切らし、「援呉」を名目として河南省進出宣言韓麟春張学良率い第3・4方面軍、および張宗昌率いる直聯軍が迫りつつあった。呉佩孚奉天派との徹底抗戦主張する靳雲鶚に後を任せて下野したその際于学忠呉佩孚直属部隊指揮権任されたが、「張学良になら投降してもいいが、蔣介石には投降するな」と厳命された。その後南陽にいたが、5月15日各地民衆襲撃受けて逃げ回っていた呉佩孚身を寄せてきた。呉佩孚とともに四川逃れる事にしたが、大部隊を連れていくことで地元との衝突恐れ少数の衛隊団だけを連れていくことを提案呉佩孚もこれに同意し、ともに軍服脱いで四川渡った

※この「呉佩孚の腹心」の解説は、「于学忠」の解説の一部です。
「呉佩孚の腹心」を含む「于学忠」の記事については、「于学忠」の概要を参照ください。

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