各地のキリスト教
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/05/13 00:26 UTC 版)
ポリュカルポス 2世紀初頭の教会堂の存在を示すような文書以外の考古学的資料は存在しない。しかし、各地にキリスト教は広がり、小アジア(アナトリア半島)ではエフェソス教会を筆頭に、スミルナ(イズミル)、マグネシア、トラレスにも教会があった。スミルナ司教ポリュカルポスは、民衆によるキリスト教徒への憎悪、ユダヤ教徒による煽動などを報告しており、最後には民衆の迫害で殉教した。 キリスト教の分派ではないが、キリスト教から影響を受けた同時期の宗教思想であったグノーシス主義では人間の世界は悪しき造物主(デミウルゴス)によって創造されたとする。グノーシス主義に影響を受けてローマ教会から破門されたキリスト教としてはポントスの富裕な商人マルキオンがおり、彼はイエスの肉体を否定し、ユダヤ教的要素を排斥して旧約聖書をすべて否定した。仮現説ではキリストは真の肉体をもった現実的存在者ではなく、仮現的存在であったとする。 150年頃、小アジアのかつてフリギア王国があった土地のフリュギアでモンタノス(フランス語版)が預言し、プリスカ(英語版)とマキシミラ(英語版)という二人の女預言者を従えて、禁欲、断食と罪の告白をすすめ、天国の到来を叫んだ。モンタノス派は教会を組織し、小アジアからイタリア、ガリア、アフリカにも支持者を見出した。最初のラテン教父テルトゥリアヌスも3世紀にモンタノス派となった。 ギリシアではコリント教会が有力で、アテネ、スパルタの教会ではディオニュシオス(170年頃)が一人司教体制によって司教をつとめた。ギリシア哲学者から回心したアリスティデス、アテナゴラスがアテネの教会で活躍した。 シリア、パレスチナでは第二次ユダヤ戦争によってユダヤ教徒が弾圧され追放され、キリスト教も一時停滞した。アッシリアのタティアノスの著作はシリア教会でよく読まれ、シリアではアンティオキア教会が発展した。アンティオキア司教のイグナティオスは2世紀初めに裁判にかけられ、野獣刑による殉教を選び、イエスの苦難をまねるというスタイルはその後の模範となる信仰を示した。続くアンティオキア司教のテオフィロスは三位一体を明確にし、復活と最後の審判を本格的に論じた。またルキアノスの風刺『ペレグリーノスの昇天』では主人公がキリスト教共同体に入会し、信頼されるが、説教で迫害されて入牢すると、小アジアの教徒が支援金を持ってくるが、釈放後、教徒から追放される。 2世紀末に、エジプトではアレクサンドリアでパンタイノスが正統教理学校を営み、アレクサンドリア教会は有力教会となった。また北アフリカのカルタゴではキリスト教未公認時代最大のキリスト教ラテン作家であったテルトゥリアヌスが『護教論』『ユダヤ人反駁』などで迫害者への論駁を行い、2世紀終わりか3世紀初めにミヌキウス・フェリクスが対話形式護教論『オクタウィウス』を著した。 ガリアのルグドゥヌム(現在のリヨン)とウェエンナでは、奴隷の教徒ブランディナや騎士の教徒ウエッティウス・エパガトゥスらが信仰に執着したため、民衆に処刑された。しかしルグドゥヌム司教エイレナイオスは迫害の記録を残しておらず、迫害が偶発的短期的であったとみられる。 イタリアではローマ教会が中心であり、1世紀末にローマ司教クレメンスなどがいる。
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