南部幹線
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/17 07:20 UTC 版)
「ズヴォレン - コシツェ線」の記事における「南部幹線」の解説
スロバキア域内における東西連絡の鉄道線は、チェコスロバキア成立時から長くコシツェ - ボフミーン鉄道(コシツェ - クラリョヴァニ線、クラリョヴァニ - プーホウ線クラリョヴァニ - ジリナ間およびジリナ - ボフミーン線)の北部ルートしかなく、1936年には中部ルートとしてスロバキア鉱石山脈(Slovenské rudohorie)を横断する山岳線のマルゲツァニ - チェルヴェナースカラ線およびチェルヴェナースカラ - バンスカービストリツァ線も全通したが、幹線規格の新しい東西連絡ルートの確立が急務となっていた。 ゲメル地方のリプトウニーク村とアボウ地方のヤブロノヴォムナットゥルニョウ村(ともに現コシツェ県ロジュニャヴァ郡)の境にあるヤブロノウ台地の最低部、ヤブロノウ鞍部(sk:Jablonovské sedlo)を越える新線を建設し、スロバキア南西部のドブシナー - ロジュニャヴァ線およびプレシヴェツ - ズヴォレン線とコシツェ - トゥルニャナッポドヴォウ線を結ぶ計画は戦前からあったが、1939年のハンガリーによる侵攻とウィーン裁定によって一帯がハンガリーに割譲されたため、計画は頓挫していた。 戦後、元の国境が回復し対ソ連間の東西輸送が増大する中、計画は東西連絡南部ルートの南部幹線(Južná magistrála)として再び実施されることになり、コシツェ - トゥルニャナッポドヴォウ線トゥルニャナッポドヴォウ鉄道駅からヤブロノウ鞍部を長大トンネルで越え、ドブシナー - プレシヴェツ線ロジュニャヴァ鉄道駅にいたる約30kmの新線を建設し、1953年末に供用開始する計画が決定した。 ヤブロノウ鞍部を南北に貫くヤブロノウトンネル(sk:Jablonovský tunel、全長3148m)は、新線リプトウニーク鉄道駅 - トゥネル信号場間に設けられ、当時のチェコスロバキア国内で3番目に長いトンネルとなった。当初は複線トンネルとする案もあったが、工費の問題から単線とした。南側コシツェ方から2730m区間が直線、北側ズヴォレン方418m区間が半径600mの曲線で、トンネル内勾配は3‰および5‰である。 ČSDの施工で1951年10月27日に掘削を開始。当初は旧来の矢板工法を採用し、1952年2月からは地質に適したオーストリア工法(旧オーストリア工法)に変更したものの、予算不足による資器材及び作業員の確保難から工事は難航。1952年7月にはヤブロノウに設置された路線企業国営会社(Trate družby n.p.)第05プラントに施工が移管され、引き続き計画の1953年末供用開始を目指し国内メディアの注目を集めながら工事を急ピッチで進めたが、慢性的な人員不足と切羽の労働環境悪化、出水などが続いたため、貫通は1953年4月30日、竣工およびČSDへの引き渡しは1954年半ばにずれ込み、線路敷設を経た供用開始は1955年1月23日となった。 新線開業と同時にČSDはドブシナー - プレシヴェツ線ロジュニャヴァ - プレシヴェツ間とコシツェ - トゥルニャナッポドヴォウ線をコシツェ - プレシヴェツ線に編入した。 現在のロジュニャヴァ鉄道駅は、コシツェ方面と接続する南部幹線の新線建設時に分岐地点となった旧ブルゾチーン鉄道停留場 - 旧ロジュニャヴァ鉄道駅間に開設されたもので、このとき従来のロジュニャヴァ鉄道駅はロジュニャヴァプレドメスチエ鉄道駅(現鉄道停留場)に改称してドブシナー - ロジュニャヴァ線に編入されている。
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