南部平原戦役
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2018/07/13 01:24 UTC 版)
1864年11月、カーソンはカールトン将軍により、テキサス西部のインディアン部族との取り引きを命令された。カーソンと彼の騎馬部隊は、ウィリアム・ベントの建てたアドベ建築の交易所と酒場の廃墟、アドビ・ウォールズで1500名以上のカイオワ族、コマンチ族、シャイアン族の連合軍とはち合わせた。このアドビ・ウォールズの戦いでは、ドハサン(Dohäsan)率いるインディアンの連合軍がカーソンの部隊に攻撃をしかけたが、カーソンはインディアンのキャンプとティピーを燃やして手痛い損失を与えた。この数日後、ジョン・チヴィントン大佐は合衆国軍隊を率いてサンドクリークの虐殺を行った。チヴィントンは、自分はカーソンを越え、すぐ「インディアン殺し」として有名になるだろうと豪語した。カーソンはこの虐殺に激怒し、チヴィントンの行動を公に非難した。しかしながらサンドクリークとアドビ・ウォールズは、どちらも1865年のコマンチ族との停戦条約(リトルロック条約)の締結に一役買った。
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