北陸鉄道発足と延伸
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「北陸鉄道金沢市内線」の記事における「北陸鉄道発足と延伸」の解説
金沢電気軌道は1932年に高岡電灯社長菅野伝右衛門が社長に就任したのが示すように、1930年代には富山県高岡市の電力会社高岡電灯の傘下に入っていた。また1921年より兼営の電気供給事業を手掛けていたが、この事業は1930年代後半にかけて徐々に大型化した。日中戦争が深刻化した1940年代に入ると、北陸の電力業界では富山県の日本海電気の主唱で電気事業統合が急速に具体化され、翌1941年(昭和16年)には日本海電気・高岡電灯のほか金沢電気軌道をも含む計12社の合併が取りまとめられた。そして1941年8月1日、12社の新設合併により新会社北陸合同電気が成立、金沢電気軌道を含む旧会社は解散した。 この再編により金沢市内線を含む旧金沢電気軌道の鉄軌道・路線バス事業は北陸合同電気に引き継がれるが、配電統制令によって北陸合同電気は翌1942年(昭和17年)4月1日付で国策配電会社北陸配電に吸収された。このとき付帯事業を北陸配電に持ち込まないようにするため、設立と同日付で交通部門資産の現物出資により新会社・(旧)北陸鉄道株式会社が立ち上げられた。その後富山地方鉄道発足に刺激され石川県内でも交通事業の戦時統合を目指す動きが促進され、(旧)北陸鉄道を含む石川県下の交通事業者7社の合併が実現、1943年(昭和18年)10月13日に現在の北陸鉄道が発足した。郊外線の金石電気鉄道もこの合併に参加し、浅野川電気鉄道も遅れて1945年(昭和20年)10月に合併されている。 北陸鉄道発足当時は太平洋戦争下であったことから、出征した男子従業員に替わって18歳前後の女性で構成される女子勤労報国隊が市内線にも配属され、車掌業務、次いで運転士業務を受け持つようになった。1944年(昭和19年)になると軍港所在地呉市(広島県)を走る呉市電へ木造車3両の譲渡を強制され、また金属製のブレーキシューの配給が細りセメントや木材など代用品利用を余儀なくされた。同年10月1日にはラッシュ時対策として10か所の停留場が廃止された。 1944年4月18日、北陸鉄道に対し金沢市白銀町 - 木ノ新保(金沢駅前)間0.82キロメートルならびに山ノ上町3丁目 - 小坂町間1.7キロメートルの軌道敷設の特許が下りた。前者は金沢駅への輸送強化のための路線で、翌1945年(昭和20年)5月17日付で白銀町停留場から六枚町停留場経由で金沢駅前停留場へ至る区間が開業、金沢駅前のループ線が出現した(既設白銀町 - 金沢駅前間は単線化)。後者は東金沢駅周辺に位置する軍需工場への通勤輸送強化を目的とした路線で、ループ線開通と同日付でまず南半分、小坂神社前停留場から鳴和停留場までの区間が開通した。これら新線に資材を供出するため1944年11月に松金線野町駅前 - 野々市間が廃止されている。この部分廃線に伴い1920年より行われていた市内線・松金線直通運転は野町 - 野々市間を石川線に振り替えて継続されたが、1945年8月に取り止められた。 1945年の終戦直前の時期には福井市や富山市で空襲が激化し、次は金沢市が対象となるとの噂が広まったため、市内線は毎晩20時で運転を打ち切り、車両を車庫から出して分散疎開させる措置が採られた。ただし実際には直接的な空襲被害を受けることはなかった。
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