北陸電力による開発
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/11/25 01:17 UTC 版)
有峰ダム建設工事を中止に追い込んだ太平洋戦争は、1945年(昭和20年)8月15日に終戦の日を迎える。荒廃した国土は徐々に復興し、朝鮮戦争による特需景気(朝鮮特需)によって産業や人々の生活は再び活気を見せ始めた。戦前から戦中にかけて日本の電力系統を一手に引き受けていた日本発送電は解体され、富山県・石川県・福井県といった北陸地方における電気事業は北陸電力に割り当てられた。このとき北陸地方を流れる黒部川水系・庄川水系の水利権が関西電力に渡ったことは、水力発電が主力であった当時において北陸電力への大きな打撃となった。北陸電力は不足する電力をまかなうため、神通川水系において水力発電所の建設工事を実施。神通川第一、第二、第三発電所を完成させてもなお電力不足は解消せず、ついに常願寺川水系において水力発電所の建設を計画。実現過程において頓挫していた有峰ダム建設工事は、1955年(昭和30年)以降、北陸電力による常願寺川有峰発電計画(略称 JAP )として再開されることになった。 計画の中核をなす有峰ダムは、その諸元について見直され、より大規模なものとなった。基礎部分こそ建設途中で放棄されていたものを流用するものの、高さは30メートル高められ140メートルとし、総貯水量は2億立方メートルに達した。370億円にまで膨れあがった工費については、債券発行のほか生命保険会社や銀行から借り入れるなどして資金を調達。交渉を重ねた結果、世界銀行からも融資を受けることに成功している。工事は1957年(昭和32年)に着手。当時の北陸電力社長・山田昌作は現地をたびたび訪れ、作業員らの士気を鼓舞して回った。この大工事に「電力の鬼」こと松永安左エ門をはじめ、世界じゅうから多くの視察団が訪れている。有峰ダムは1959年(昭和34年)に貯水を開始。先だって和田川第一発電所(2万7,000キロワット)・和田川第二発電所(12万2,000キロワット)・新中地山発電所(7万3,000キロワット)を稼働させたのち、1960年(昭和35年)に完成を迎えた。同時に、これら水力発電所群の運転による河川流量の変動を安定化させるための逆調整池として、下流に小俣ダムおよび小俣発電所が完成している。 なお、有峰ダム工事で亡くなった殉職者は164人で、ダムの近くには慰霊碑が建っている。 和田川第一・第二発電所取水塔有峰ダム本体、洪水吐きの近くに付設。 和田川第一・第二発電所と新中地山ダム 新中地山発電所 小俣ダム
※この「北陸電力による開発」の解説は、「有峰ダム」の解説の一部です。
「北陸電力による開発」を含む「有峰ダム」の記事については、「有峰ダム」の概要を参照ください。
- 北陸電力による開発のページへのリンク