副総理兼環境庁長官として
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「三木武夫」の記事における「副総理兼環境庁長官として」の解説
総裁選で福田を圧倒した田中は第1次田中内閣を組閣した。三木は副総理含みの無任所相として入閣し、8月29日には副総理となる。三木は田中内閣の副総理、三木派の領袖という立場ではあったが、三度目の挑戦であった総裁選に惨敗した上、10歳以上若い田中が総理となったため、総理就任への道が遠ざかってしまったように感じられた。三木は無任所相の役割として日中国交正常化と党の体質改善を挙げていた。 1972年(昭和47年)12月の第33回衆議院議員総選挙後に成立した第2次田中内閣で、三木は副総理兼環境庁長官となった。当時、高度経済成長のひずみもあって公害問題が大きな社会問題になっていた。三木は環境庁長官として環境問題に取り組むことになった。まず四大公害病のひとつである水俣病問題の解決のため、1973年(昭和48年)7月、三木は水俣を訪れ、チッソと水俣病患者との補償協定に立ち会った。三木は水俣病被害者に対して研究センターの設立を約束し、この時の三木の約束に基づいて国立水俣病研究センターが設立された。 また当時大気汚染の大きな要因の一つであった自動車の排ガス規制に、三木は積極的に取り組んだ。三木はアメリカのマスキー法と同じような排ガス規制法を日本でも施行させようとした。三木のもくろみは自動車大手のトヨタ、日産から強い反発を受けた。トヨタや日産は当時の技術力では排ガス規制の達成は困難であり、アメリカと比べて自動車産業後進国である日本が、アメリカの排ガス規制法であるマスキー法のような規制を実施するのは非現実的であると訴えたのである。また三木の排ガス規制法施行の取り組みはアメリカ追随であるなどという批判も浴びた。三木の側近である海部俊樹も、地元がトヨタの本拠地である愛知県であることもあって多くの批判を浴び、三木に考え直すように働きかけたが、三木は日本の自動車産業にとって厳しい要求であることは認めながらも、この排ガス規制をクリアする車を作る努力を進めれば、将来的に日本の自動車産業は世界に通用するものになるとして批判を受けず、結局排ガス規制法が制定されることになった。 1973年(昭和48年)、第四次中東戦争勃発をきっかけとして発生したオイルショックが日本を直撃した。OPEC加盟国のうちペルシャ湾岸諸国の6カ国が石油戦略の発動を決断し、続いてOAPECが石油供給国を友好国、中立国、敵対国に三分類し、友好国以外には供給削減が通告された。当初日本は中立国扱いとされ、石油の供給削減が迫っていた。日本にとって石油の供給削減は死活問題であり、政策を急遽アラブ寄りに転換することとして、日本の対アラブ政策の転換を説明して友好国扱いとしてもらい、石油供給削減を回避するための特使が派遣されることになった。 特使の白羽の矢は副総理の三木に立った。これは難航が予想されたアラブ諸国との交渉を三木に押し付けたとの見方もある。ただ三木は外務大臣時代、1967年(昭和42年)の第三次中東戦争後に行われた国連総会の席で、イスラエルの占領地からの撤退、中東和平の確立、そしてパレスチナ難民への支援を骨子とした国連安保理決議第242号の賛成演説を行っていた。かつて国連総会でアラブ側の主張支持の演説を行った経験がある三木は、アラブとの交渉は自らが最も適役であるとの自負も持っていた。 特使として中東に派遣されることが決まった三木は、アラブについての猛勉強を始めた。そして1973年(昭和48年)12月10日、三木特使はサウジアラビア、エジプト、クウェートなどアラブ諸国8カ国歴訪に出発した。サウジアラビアで三木はファハド殿下、続いてファイサル国王と会談し、日本の新アラブ政策について説明した。続いて訪問したエジプトではサダト大統領と会談を行った。三木の日本の新アラブ政策説明は、アラブ諸国首脳におおむね好意的に受け入れられた。結局OAPEC諸国は日本を友好国扱いとし、石油の供給制限は解除されることになった。
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