刺傷事件の顛末
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/17 15:59 UTC 版)
1991年の大下英治による加害者への直接取材、その他により刺傷事件の顛末が明らかにされている。 酩酊するほど飲みながら女性と話していた力道山の横を暴力団員村田勝志が通り掛る際、力道山が「足を踏まれた」と、後ろから村田の襟首をつかんだ。村田は踏んでいなかったので、「踏んだ覚えはない」と反論し、口論となった。村田は「あんたみたいな図体の男がそんなところに立っていたらぶつかって当然」と言い放ち、懐中に手をやった。それを見て、刃物を取り出すのではないかと思った力道山は「わかった。仲直りしよう」と提案するも、それに対し村田は「こんな事されて俺の立場がない」と仲直りを拒否。和解を諦めた力道山は村田の顎を拳で突き飛ばし、壁に激突した村田は顎がガクガクになった。さらに力道山は村田の上に馬乗りになり激しく殴打したため、村田は「殺される」と思い、ナイフを抜いて下から左下腹部を刺した。ナイフの刃は根元まで刺さったが、出血は衣服の上に染み出ていなかったという。 1日目は応急手当を受け帰宅。その後、村田の所属団体の長である小林楠扶がリキアパート内の力道山宅を謝罪に訪問。「申し訳ない。この責任は自分がとる」と頭を下げたところ、力道山も「うん、うん、わかったよ」と声をしぼり出すようにいったという。 2日目には症状が悪化したため赤坂の山王病院に入院、聖路加病院から外科医に来てもらい十数針縫う手術を受け成功。山王病院は産科婦人科が中心の病院だが、力道山がここを選んだのは、親しい医者のいる病院にして話が表に出ないようしたためという。側近たちは、同じ赤坂にある有名な外科病院である前田外科への入院を勧めたが、力道山は嫌がった。 7日目に腹膜炎による腸閉塞を理由に午後2時30分再手術。これも成功したと報告されるが、その約6時間後の午後の9時50分ごろに力道山は死亡した。39歳没(諸説あり)。死因は正式には穿孔(せんこう)性化膿性腹膜炎とされている。 しかしながら他にも諸説あり、手術の際、麻酔を担当した外科医が、筋弛緩剤を注射した後に気管内チューブの気管挿管を失敗し、窒息したという医療事故のためという説もある。なお、村田勝志を裁く裁判の際、死因究明のため提出されたカルテの中に麻酔に関するものだけなく、最後まで「紛失した」として出されなかったという。 他の説は、力道山の腹膜炎はほぼ完治に近い状態まで回復していたが、腹膜炎を患っている期間は食事は勿論のこと、水の服用も厳しく制限される状態にあった。ところが食欲が非常に旺盛であった力道山は、空腹に耐えきれず、付き人に行きつけの寿司屋に寿司を注文するように命令し、ついでに酒も買わせた。届けられた寿司と酒を飲食して空腹感を抑えた力道山であったが、飲食した生ものである寿司やアルコールが完全に完治しきっていなかった患部に障り、これを以って病状が急変、急死したという。力道山が最初の手術後、サイダーやコーラ等を飲用しているのを目にしたという者は多く、上記のようなこともありうる話だが確証はない。ただし、妻の田中敬子は「自分や看護師が昼夜交代で付き添っていたので絶対にありません」と否定している。力道山は普段から人よりも傷が治るのが早く、刺された直後にも病院へ行かず応急処置だけで済ませたことなどから、自身の体を過信していた部分がある。 加害者の村田は、力道山の死を病院のベッドで聞いた。犯行の当夜、彼が所属する大日本興業の上部団体・住吉一家と対立関係にあり、力道山とつながりの深い東声会の組員らにより暴行を受けた村田は、重傷を負い入院していたのである。経緯については、小林楠扶がリキアパートに謝罪に赴いた際、村田も同行した。しかし、「直接顔を合わせると、先生が興奮してしまう」という力道山側近の判断から、村田は外で待機していた。この時、周辺に集まっていた東声会組員から激しい暴行を加えられたのである。村田は初めは、小林の立場を考えじっと耐えていたが、我慢しきれず力道山を刺した登山ナイフで、東声会組員一名を刺している。なお、村田が入院していた病院は、力道山が入院を拒んだ赤坂の前田外科だった。
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