制度の解説
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/10/27 22:33 UTC 版)
昇殿は昇殿を認める側(天皇あるいは院宮)と認められる側との個人的な関係に基づいた朝廷内部の秩序であり、律令制に基づいた秩序である官位とは別の体系上の制度であった。公卿ではない四位以下の者が昇殿を認められるには、昇殿宣旨(しょうでんのせんじ)を受ける必要があった。この宣旨を受けた者を殿上人(雲客)と呼び、昇殿を許されない地下との間に明確な区別があり、公家社会における身分基準の基本となった。殿上人の対象者は主に四位・五位であったが、六位からも1、2名が選ばれることがあった。これと別に、蔵人は職務に伴ない昇殿が許された。 殿上人に昇殿が許される時には、宣旨が下され、殿上の間に備えられた日給簡に姓名が記入された。 昇殿宣旨の書式(蔵人の場合の一例) 官位姓名右、被別当左大臣宣偁、件人宜聴昇殿者、年月日 頭官位姓名奉 (訓読文) 右、別当左大臣の宣(せん)を被(こうむ)るに偁(い)はく、件(くだん)の人、宜しく昇殿を聴(ゆる)すべし者(てへり)。 昇殿は天皇との私的関係によって許されるものであったため、昇殿の許可は天皇の代替わりによって効力を失った。また本人の官位の昇進でも無効となった。一旦、昇殿の資格を失った後に、改めて昇殿を許されることを、還殿上(かえりてんじょう)や還昇(げんじょう)と呼んだ。 殿上人は蔵人頭の指揮下、当番制で天皇の身辺の世話や陪膳、宿直を勤めた。また、儀式や公事の参加も求められた。勤務の実績は、殿上の間に置かれた日給簡によって管理された。勤務の怠慢が重なったり、犯罪に問われたりすると、昇殿が停止される除籍(じょじゃく)処分となった。 除籍は勅命を受けた蔵人頭の指示によって、日給簡から当該者の氏名を削ることで公示された。このため、除籍処分を「簡を削る」とも称した。また、一度除籍を受けた者は処分が撤回・赦免されない限りは官位の補任を受けられなかったため、その前に再度昇殿(還昇)が認められる必要があった。 公卿は原則として昇殿が許されたが、殿上人と異なり、昇殿に伴なう職務はなく、日給簡に姓名を記されることもなかった。もっとも、政治的な理由や天皇個人との関係を理由として、公卿でも昇殿が許されない事例もあり、そういう人々を「地下の公卿(地下の上達部)」と称した。代表的な例として東宮居貞親王(後の三条天皇)の尚侍・藤原綏子と密通した源頼定は、居貞親王即位後に、既に公卿であるにも関わらず昇殿が許されなかったと伝えられる(『大鏡』)。また、後世には、地下家の者が従三位以上に達しても昇殿を許されない慣例が成立した。 殿上人は蔵人とは異なり、禁色が許されることは基本的になかったが、雑袍宣旨によって雑袍の着用が認められた。また、摂関や大臣の子弟である殿上人には、特に禁色宣旨によって蔵人同様、一部の公卿待遇の服装等が認められることがあった。 五位未満の者が昇殿を認められない規則は、人間のみならず動物にも適用された。そのため、天皇が愛玩動物を飼う場合や、あるいは珍奇な動物を鑑賞する際には、その動物に五位の位階が授けられた。一条天皇の愛猫の「命婦のおとど」が有名である。 なお、同じく一条天皇が飼っていたイヌである「翁丸」は、おそらく屋外で飼われていた事から無官であり、「命婦のおとど」を追いかけて「昇殿した」事から、折檻を加えられた上、島流しにされた(後に自ら戻ってきた翁丸は哀れまれ許された)。
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