初代『メルキュール・ド・フランス』
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「メルキュール・ド・フランス」の記事における「初代『メルキュール・ド・フランス』」の解説
『メルキュール・ガラン』誌は、1672年、著述家ジャン・ドノー・ド・ヴィゼによって創刊された。名称は、ローマ神話に登場する神々の伝令使メルクリウスに由来するとともに、パリの本屋J. Richerが1611年に創刊したフランス最初の文芸誌『メルキュール・フランソワ』(Mercure françoys) にもちなんでいる。 『メルキュール・ガラン』誌の目的は、知識人階級に、宮廷生活や学問的・芸術的議論を紹介することであり、不定期に発刊され、詩、逸話、ニュース(結婚の情報やゴシップ)、舞台、芸術批評、歌、ファッションなどを取り上げた。この雑誌に取り上げられることが、流行の証(時にはスキャンダル)となった。1674年に休刊したが、1677年、『ヌーヴォー・メルキュール・ガラン』という名前で復活し、毎月刊行されるようになった。 『メルキュール・ガラン』は、ファッション界の初めての雑誌であり、ジャーナリズムの歴史の中で重要な意義を有する。ルイ14世治世下におけるファッション、贅沢品、エチケット、宮廷生活などを地方や国外に広める上で大きな役割を果たした。1670年代には、新しいシーズンのファッションに関する記事が、版画付きで掲載された。1697年8月号には、当時の新しいパズルゲーム、ペグ・ソリテールについての詳しい説明が載っており、このゲームに関する最も古い資料となっている。 同時代の著述家からからかいの対象となることも多かった。劇作家エドム・ブルソー(英語版)は、気取った社交を批判した作品に『メルキュール・ガラン』という題名を付けた。ドノー・ド・ヴィゼの抗議を受けて、ブルソーは『題名のない劇』と付け直した。 17世紀の芸術・文学が古代の芸術・文学より優れているかという、18世紀初頭まで続いた「古代・現代論争」においても重要な役割を果たした。ベルナール・フォントネルと『メルキュール・ガラン』は「現代派」に属したのに対し、ニコラ・ボアロー=デプレオーは「古代派」の頭目に押し上げられ、ジャン・ラシーヌ、ジャン・ド・ラ・フォンテーヌ、ジャン・ド・ラ・ブリュイエールがこれを応援した。 雑誌は商業的に成功し、ドノー・ド・ヴィゼは相当の収入を得た。フランス芸術・人文科学の世界における審判としての地位を得、革命前フランスにおける最も重要な文学雑誌と呼ばれる。 トマ・コルネイユ(英語版)は、頻繁に寄稿した。ドノー・ド・ヴィゼが1710年に死去してからも刊行が続けられた。1724年、『メルキュール・ド・フランス』と改称され、政府に任命された編集委員が入ることにより、準公的性格を有するようになった。利益は、執筆者の年金に充てられることになった。ジャン=フランソワ・ド・ラ・アルプ(英語版)が20年以上にわたり編集主幹を務め、ジャック・マレ・デュ・パン(英語版)も協力した。その他の著名な編集者・寄稿者として、ジャン=フランソワ・マルモンテル(英語版)、ギヨーム・トマ・フランソワ・レナール(英語版)、ニコラ・シャンフォール(英語版)、ヴォルテールなどがいる。 「バロック」という言葉の使用例として確認できる最も古いものが、『メルキュール・ド・フランス』1734年5月号であり、ジャン=フィリップ・ラモーの『イポリートとアリシー』に対する匿名の風刺的批評で、軽蔑的に用いられている。 フランス革命直前に、経営権がシャルル=ジョセフ・パンクーク(英語版)に譲渡された。革命の間、一時的に『ル・メルキュール・フランセ』と改称した。1811年、ナポレオンにより出版が禁止されたが、1815年復刊した。最後の出版が1825年である。
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