再び革命の戦いへ、そして死
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/03 20:27 UTC 版)
「チェ・ゲバラ」の記事における「再び革命の戦いへ、そして死」の解説
ゲバラは1965年中にコンゴ民主共和国に渡り、コンゴ動乱後混乱が続く現地で革命の指導を試みたが、コンゴの兵士たちの士気の低さに失望する。 コンゴでは喘息を再発、発作に苦しめられるようになり、1966年3月から7月までチェコスロバキアのプラハ近郊の町ラードビーにて、情報当局に匿われながら潜伏していた。偽名を使ったほか、髭を剃り落とし、髪を短く切るなどして別人になりすまし、ドイツ人らと滞在した。そこでチェコスロバキアの現状を目の当たりにし「これは社会主義ではなく、その失敗作だ」と述べたと伝えられている。7月19日にウルグアイのパスポートでチェコスロバキアを出国し、モスクワを経由して秘密裏にキューバに帰国した。 カストロとの会談の後、新たな革命の場として、かつてボリビア革命が起きたものの、その後はレネ・バリエントスが軍事政権を敷いており、南米大陸の中心部にあって大陸革命の拠点になるとみなしたボリビアを選んだ。ボリビアと国境を接するアルゼンチン、パラグアイ、ブラジル、ペルー、チリに連絡組織が作られ、チリ社会党の指導者サルバドール・アジェンデはこれを支援した。1966年11月、アドルフォ・メナ・ゴンザレスの偽名でウルグアイ人ビジネスマンに変装して現地に渡る。 独自の革命理論に固執したため、親ソ的なマリオ・モンヘ率いるボリビア共産党からの協力が得られず、カストロからの援助も滞り、また革命によって土地を手に入れた農民は新たな革命には興味を持たなかった。さらに、西ドイツから逃亡して来ていた元ナチス親衛隊中尉クラウス・バルビーを顧問としたボリビア政府軍が、冷戦下において反共軍事政権を支持していたCIAとアメリカ陸軍特殊部隊群(グリーンベレー)の軍事顧問団から武器の供与と兵士の訓練を受けてゲリラ対策を練ったため、ここでも苦戦を強いられる事となる。農民とは異なり、6月24日にカタビ鉱山では鉱山労働者がゲバラを支持する動きを見せるも、先手を打った政府軍がシグロ・ベインテ鉱区でサン・フアンの虐殺を行って労働者を制圧すると、ボリビア国内勢力からのゲバラへの支援は事実上失われた。 1967年10月8日、20名前後のゲリラ部隊とともに行動、アンデス山脈にあるチューロ渓谷の戦闘で、ガリー・プラド大尉率いる政府軍のレンジャー大隊の襲撃を受けて捕えられる。部隊を指揮していた“ウィリー”シメオン・クバ・サラビアとともに、渓谷から7キロほど南にある村イゲラに連行され、小学校に収容された。翌朝、60キロ北のバジェグランデからヘリコプターで現地に到着したCIAのフェリックス・ロドリゲスがイゲラで午前10時に「ゲバラを殺せ」を意味する暗号「パピ600」の電報を受信。午後0時40分にまずウィリーがベルナルディーノ・ワンカ軍曹 にM1で撃たれた後、午後0時45分、ゲバラは政府軍兵士のマリオ・テラン軍曹 に右脚の付け根と左胸、首の根元部分を計3発撃たれたが絶命せず、最終的には別の兵士に心臓を撃たれて死亡した。死亡の証拠として両手首を切り落とされ、遺体は無名のまま埋められた。 銃撃を躊躇する兵士に向けて放った「落ち着け、そしてよく狙え。お前はこれから一人の人間を殺すのだ」、そして撃ち損じた当人に向けての「お前の目の前にいるのは英雄でも何でもないただの男だ。撃て!臆病者め!!」が最期の言葉であった。(実際にはマリオ・テラン軍曹が撃つ時に躊躇していたため、ゲバラに「恐れるな、早く撃て!」と言われ、右脚を撃ち抜いたものの、ゲバラはまだ生きていた。恐怖で部屋を出たテラン軍曹を上官が叱責し、とどめをさしてこいと命令され、もう一度ゲバラが収容されている部屋へ入った。ゲバラは「ちゃんと狙って撃て」と言い、テラン軍曹は左胸と首を撃った。それでも絶命しなかったため、別の兵士がゲバラを仰向けにし、至近距離で心臓を撃ち抜いて絶命した) ゲバラのゲリラ戦術は、キューバでの実戦経験に裏付けられて完成されたものだった。少人数のゲリラで山岳に潜伏し、つねに前衛、本隊、後衛とわけて組織的に警戒し、必要があれば少人数で奇襲的な襲撃を仕掛けるというものだった。
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