再び鹿児島へ、そして伊兵衛との別れ
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/09/13 08:34 UTC 版)
「新橋喜代三」の記事における「再び鹿児島へ、そして伊兵衛との別れ」の解説
鹿児島に戻り、南券番の置屋「喜楽」に所属。 1922年(大正11年)7月10日、妓籍名を喜代治と改めてお披露目。 鹿児島に戻ってからも伊兵衛とは手紙を通じて交際は続いたが、次第に伊兵衛からの連絡が滞るようになり、11月にはとうとう手紙の返事が来なくなった伊兵衛の気持ちを確かめる為に、置屋には熊本へ行くと偽り、生まれて初めて上京。 東京では伊兵衛の両親とも初めて対面し、本人との関係も修復して10日後には鹿児島へ戻るが、12月20日には伊兵衛へ思いが高まり、誰にも告げぬまま発作的に夜行列車に飛び乗り東京へ向かう。 しかし喜代治の行動を察知した券番の坂崎某が後を追って上京し、鹿児島へ帰るよう説得するも聞き入れなかったため、さらに正義が上京し、結果鹿児島へ連れ戻された。 その際、伊兵衛の両親との仲も円滑であったことから、伊兵衛と両親は喜代治との結婚を視野に入れ落籍を願い出たが、一括で落籍に要する費用を支払えなかったため正義に断れている。そもそも正義は台湾時代に伊兵衛が一人で鹿児島を訪ねて来た頃から良い印象を持っていなかった事も災いした。 年が明けて1923年(大正12年)1月の末、伊兵衛の母親から立腹した内容の手紙が届き、喜代治が知らぬ間に正義が伊兵衛の両親宛に「娘は伊兵衛との仲をあきらめた」と偽りの内容の手紙を出していた事を知る。すぐさま弁解の手紙を出そうとしたが、実際問題としてなかなか進展しない伊兵衛との仲や、正義をはじめとする周囲の反対に、この恋の成就は無理だと悟った喜代治は別れを決意し、伊兵衛の母親宛にその旨を記した手紙を送っている。 なお、大正末年頃には、鹿児島乗馬会に属し、乗馬服を着て日曜日など遠乗りした。
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