革命の拠点
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/18 09:36 UTC 版)
長征の最終目的地となった呉旗鎮(1935年10月到達)から保安を経て、1937年から1947年まで中国共産党中央委員会が置かれ、毛沢東が延安の窰洞を拠点に抗日戦線の指揮を行った。また、『新民主主義論』『持久戦論』『文芸講話』『連合政府論』など、毛沢東の主要著作とされる論文執筆をおこなった。これらの事跡によって革命の聖地とされている。 延安地区に中国共産党による組織が設置されたのは1926年(民国15年)、李象九や謝子長による宜川軍第一、第二支部が陝西省立第四中学に「延安特別支部」を設置したことに始まる。1930年代にかけての反蔣介石闘争の結果、陝甘辺区及び陝北辺区を設置、1935年(民国24年)には陝甘省と陝北省を称している。同年から開始された長征により1936年(民国25年)6月、毛沢東率いる中国工農紅軍陝甘支隊が延安に入城、1937年には陝甘寧辺区が、同年10月には延安市政府が成立し辺区政府直轄となっている。その後1940年代にかけ共産党による抗日軍政大学、魯迅芸術学院、陝北公学、延安大学など思想面の強化も含めて根拠地建設が進んだ。共産党はこの地で「整風運動」と呼ばれる思想統制運動を行っている。1942年(民国31年)1月には行政督察専署が設置され延安市(1949年に延安県と改められた)、鄜県、甘泉県、志丹県、安塞県、子長県、延川県、延長県、固臨県の1市8県を管轄した。1949年5月、陝北行政区を設置、楡林、三辺、綏徳、黄竜の4分区及び延安、延長、延川、子長、安塞、志丹、甘泉の直轄県を統括した。
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