民衆史の蹉跌
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/05/05 05:12 UTC 版)
しかし、民衆史を民衆達自身で紡いでゆくという方向性は、政治主義に巻き込まれたり、石母田による民衆の捉え方自体に確たる方針があったとは言えなかったため、挫折を余儀無くされる。 村の歴史を農民自身が書くという作業に関しては、農民の主体性を引き出すというより、山村工作隊が農村に入り工作活動に勤しむ面が強過ぎたことが指摘されており、「一般学生層を性急に農民に結びつける政治的引き廻し」という批判の所以である。例えば、民科京都支部歴史部会の関係者を中心として、1952年夏に行われた京都府北部の農村工作に参加した中塚明によると、「革新的な勢力にとって政治的に空白の地帯だということだけであった」という。 また、描き出されるべき「農民」像についても、農村に深く入るに従いその姿は千差万別であることが明らかになった。たとえ「農民」共通のイメージを描けたとしても、その「農民」像と学生との間には、同じ国民でありながら乗り越え難い壁さえ感じられたという。「石間をわるしぶき」の作成に携わった加藤文三をして、「農村の人たちが決して一律ではなく、複雑な階層構成をもっている」「階層が異るに従って要求も異」ると言わしめていることからも、統一された「農民」像を描くのがいかに難しいかが分かる。 この点について小熊英二は、石母田が農村そのものを知らなかった一方で、自身が東北地方出身(宮城県石巻市育ち)であることに強い劣等感を抱き、同地方を「もっとも古い型の封建制が支配する後進的な辺境」「反動と反革命の拠点」と形容していたことなどを指摘しており、石母田には農村なり農民に対する無理解があったと言える。 石母田は学問的運動を政治的動員の手段として利用しようとした、所感派による「実用主義」への批判をほのめかしながらも、「よろこび」や「たのしさ」を生み出すべき運動が、やがて「義務」や「強制」へ転化した点を後年改めて悔いている。
※この「民衆史の蹉跌」の解説は、「国民的歴史学運動」の解説の一部です。
「民衆史の蹉跌」を含む「国民的歴史学運動」の記事については、「国民的歴史学運動」の概要を参照ください。
- 民衆史の蹉跌のページへのリンク