革命の挫折と晩年
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/14 09:51 UTC 版)
「コシュート・ラヨシュ」の記事における「革命の挫折と晩年」の解説
再び、ハプスブルク家の軍勢が押し寄せたうえ、ロシア帝国がオーストリアを支持したことで危機的状況になり、ブダペシュト包囲を経て街は陥落した。コシュートは8月にオスマン帝国に亡命し、1851年まで滞在した。 1851年から1852年には、アメリカ合衆国のニューヨークに亡命して、その後イギリス・ロンドンやフランス・パリなどへ身を寄せた。その間にカール・マルクス、フランス亡命中にジュゼッペ・マッツィーニと接触があった。 その後、1861年にイタリアに移り、1865年にトリノに移り、1867年にアウスグライヒによってオーストリア・ハンガリー二重帝国が成立するが、彼はこれを真のハンガリー独立ではないとして受け入れなかった。1887年に東海散士の訪問を受けた。 以降のコシュートはそのまま祖国に帰国せず、1894年にトリノで死去した。彼の遺体はハンガリーに戻され、盛大な葬儀ののちにブダペシュトのケレペシ墓地に埋葬された。 1890年には彼のもとを訪れたハンガリー人たちの要望に応えて蝋管にメッセージを録音した。この録音は現存しており(外部リンク参照)、コシュートは歴史上の人物としては肉声を録音に残した最初の一人となった。
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