ボリビア革命
ボリビア革命
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/09 13:25 UTC 版)
1950年頃までに、ボリビアでは左派政党の民族革命運動党(MNR)が都市部の労働者など中産階級の支持を取りまとめることに成功していた。1951年には国外逃亡中のままパス・エステンソロとシレス・スアソを候補者として大統領選挙を戦い、圧倒的勝利を収めた。しかし、軍部が介入し、保守政権は、軍に政権を譲った。 1952年4月、民族革命運動党は市民と鉱山労働者たちを巻き込み蜂起した。この行動を可能にしたのは国家警察の全面的な支援を取り付けたことにあった。正規軍との、3日間の市街戦を制して革命政府を樹立した。そしてパス・エステンソロが大統領に就任した。
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ボリビア革命
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/12 15:31 UTC 版)
ビリャロエル政権以降はエンリケ・エルツォーグ、マルメト・ウリオラゴイティアといった保守党政権が続いたが、MNRはこの間地下活動を続け、労働者からの支持を確固たるものとしていた。1951年5月6日の制限選挙にてパス・エステンソロ率いるMNRが有効投票12万票のうちの45%を獲得して勝利をおさめた。しかしウリオラゴイティア政権はこれを認めず総辞職を行い、軍に政権を引き渡す。この動きに翌1952年4月9日、シレス・スワソ率いる革命軍がラパスで蜂起し、正規軍が解体された。4月15日、革命政権は臨時政府を樹立すると亡命先のブエノスアイレスから戻ったパスを大統領に選出し、三大錫財閥の解体、普通選挙の導入、無償教育の普及などに取り組み、国民の大多数を占める先住民の国家への統合を促した。これらの一連の改革はボリビア革命と呼ばれ、メキシコ革命に次ぐラテンアメリカ第二の社会革命として近代的な国民国家建設が期待され、農地改革やインディオに対する差別的法律の撤廃などにより身分制的な社会構造は崩壊したが、人口の少ない内陸国で工業発展の基盤に乏しかったボリビアでは行政機構の肥大化のみが進み、抜本的な経済改善には至らなかった。錫財閥を解体して設立した鉱業公社(COMIBOL)は労働者勢力を地盤にもつ中央労働本部(COB)とともに知識人を中心とする中間層利権集団が支配し、政府に要求を突きつける強力な存在となった。このため政府は合理性を欠いた経済政策を強いられることとなり、インフレがすさまじい勢いで発生した。政府はアメリカや国際通貨基金(IMF)の指導のもとで経済の安定化を図ったが労組や農民層の抗議は激しく、第二次パス政権(1960年)時にはこれらを押さえ込むために軍の再建が実施された。
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