ボリビア軍のアクレ遠征
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2018/08/01 14:21 UTC 版)
「アクレ紛争」の記事における「ボリビア軍のアクレ遠征」の解説
ボリビア政府は蒸気船を買い入れ、ブラジル国内の水路を経由してプエルト・アロンソでの混乱を抑えるため、部隊を送る計画を立てた。実際には、小規模の部隊をベニ川経由で送ろうとしたが、ブラジルは1900年6月19日、水路を閉鎖し、ボリビア軍の船舶の進入を阻止した。ブラジル政府は、アクレ地方へボリビア軍を派遣しないように要請したが、マヌエル・パンド政権は、アクレ地方に部隊と物資を送る計画を進めた。ブラジル国内の水路を回避するため、陸路から3部隊に分けて派兵することを決定した。 1905年5月にボリビア軍は調査隊を送り、ベニ川の支流でマドレ・デ・ディオス川の北側に並行して流れるオーソン川(スペイン語版)沿いのメルセデスを拠点にすることを決めた。メルセデスを選んだ理由は、ブラジル国内に入ることなく、船舶による輸送が可能なこと、ゴム樹液採取者たちが切り開いた小道がアクレ川までつながっていることだった。一方で、メルセデスからプエルト・アロンソまでの陸路120kmを兵士一人あたり25kgの食料と装備を自ら背負ってジャングルの中を行軍しなければならなかった。 一番隊は、1900年8月8日、メルセデスを出発した。熱帯気候とジャングルの泥の中を歩く困難な行軍の末に、8月13日、アブナ川まで進出、8月22日にはアクレ川に到達した。プエルト・アロンソの情勢がつかめなかったため、部隊の行動は慎重であった。しかし、アクレ地方に入植していたブラジル人はボリビア軍に好意的であり、現地のブラジル人商人はボリビアの部隊への食料などの供給も同意した。9月22日、一番隊は反乱勢力と交戦することなく無血で、プエルト・アロンソに入った。 ペレス・ベラスコ副大統領が指揮した二番隊は、9月26日にメルセデスに入った。また10月7日に、イスマエル・モンテス(英語版、スペイン語版)大佐が指揮する三番隊がメルセデスに到着した。マヌエル・パンド大統領はこの作戦の最高指揮官としてイスマエル・モンテス大佐を指名しており、ペレス・ベラスコ副大統領との間で内部分裂が起こることが懸念されたが、二人は良好な関係を保つことができた。 イスマエル・モンテスは、三番隊を予備としてメルセデスに残し、ペレス・ベラスコ副大統領と共に二番隊を引き連れてプエルト・アロンソに向けて出発、10月14日にアクレ川に進出した。一番隊がプエルト・アロンソに入ったという情報を得たイスマエル・モンテスとペレス・ベラスコは、二番隊を待機させた上で、小型ボートでアクレ川を下り、プエルト・アロンソへ向かった。
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