佐賀藩政への関与
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天保3年(1832年)、28代武雄領主・鍋島茂義の子として誕生。天保10年(1839年)、7歳で家督を相続。嘉永6年(1853年)及び嘉永7年(1854年)に、ロシアのエフィム・プチャーチンが長崎に来航したとき、長崎警護のため長崎に行く。さらに、安政2年(1855年)、前年に日英和親条約を結んだばかりのイギリスのジェームズ・スターリングが長崎に再び来航したときも、長崎警護のため長崎に行っている。 安政6年(1859年)、25年の長きにわたって請役を務めた須古鍋島家13代当主・鍋島茂真の後を受け、佐賀藩の請役に就任する。ただしその任命は、鍋島直正公伝によると、茂昌は「朴強武毅の人であり学識は乏しくもともと変化の時局を制する器にはないが、事態を悪化させるような軽はずみな行動はとらない」ためという消極的な理由であったとされている。 元治元年(1864年)、禁門の変に際し佐賀藩兵100人を率いて上洛する。元治2年(1865年)に請役を辞任。慶応元年12月(1866年1月)、第二次長州征討に際して佐賀藩兵を率い、北九州の若松まで出征する。慶応2年(1866年)、再び佐賀藩の請役に就任し、戊辰戦争を迎えることになる。
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佐賀藩政への関与
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寛政12年(1800年)、27代武雄領主・鍋島茂順の子として誕生。文政5年(1822年)11月、家督を未だ継がないまま、22歳で佐賀藩の請役に就任。当時、佐賀藩の財政状況は極めて厳しく佐賀藩9代藩主・鍋島斉直の側役有田権之丞が領内に例外なく人頭税を課そうとしたが、茂義は「人頭税を課すことは政治の要諦にあらず」と反対し、同年12月、請役就任1ヶ月にして請役を辞職する。 文政6年(1823年)8月、再び請役に就任。文政7年(1824年)、11代将軍・徳川家斉の娘盛姫が斉直の嫡子・斉正に嫁ぐことが決まるが、佐賀藩の財政状況の厳しさから、茂義は江戸に上りその延期を請願した。しかし幕府に拒まれ、文政8年(1825年)11月、江戸において、請役として斉正と盛姫の婚儀をつかさどった。また、文政7年(1824年)に江戸に上った際、佐賀藩江戸藩邸の財政が濫に流れているとして、江戸藩邸の責任者を弾劾し、その結果、家老鍋島石見は家老職免職、側役有田権之丞と納富十右衛門は佐賀に送り返され切腹を命じられた。 文政9年(1826年)3月、婚儀の大役を終えた茂義は佐賀に戻るが、その途中、品川で斉直の遊興の場であった別邸を財政破綻の一因であるとして破却したため、斉直の怒りを買い、請役罷免の上、切腹を言い渡された。このとき、支藩の小城藩9代藩主・鍋島直堯と多久鍋島家(後多久氏)10代当主・多久茂澄が斉直に諫言し、茂義は切腹を免れた。 文政10年(1827年)1月、三たび請役に就任した。この年、斉直の娘竈姫を娶り、茂義は斉正の義兄となった。この頃、斉正の世継ぎ教育に積極的に関わっており、茂義は斉正の成長期に大きな影響を与えたと思われる。 天保元年(1830年)、斉直が隠居して斉正が10代藩主となる。茂義は請役として、斉正からたびたび意見を求められ、財政改革に取り組んだ。また、天保3年(1832年)8月には父・茂順が隠居して28代武雄領主となった。しかし、同年12月、前藩主・斉直が江戸に上ることを希望したのに対し、莫大な経費を要する江戸への出府を藩財政逼迫の折に行うべきではないと諫言して斉直の怒りに触れ、12日間の謹慎を命ぜられると共に請役を罷免される。 このように、茂義は佐賀藩の財政危機に際し、藩首脳の贅沢を止めさせることで対応しようとしたが、その方法が過激であったために、結局藩政改革を全うすることができず、3度目の請役辞任の後は藩政に関わらないまま、武雄に戻る。天保10年(1839年)に7歳の嫡子茂昌に武雄領主の地位を譲り隠居した。 文久2年(1863年)、死去。
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