佐賀藩成立
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天正12年(1584年)、龍造寺隆信は島原半島において島津氏・有馬氏の連合軍との戦いである沖田畷の戦いで敗死した。その遺児である政家の補佐役として実権を握ったのが、重臣の一人であった鍋島直茂である。天正18年(1590年)には政家を廃してその子の高房を擁立、直茂はその後見人として豊臣秀吉より認められた。以後、鍋島家は主家を圧倒することとなる。文禄・慶長の役、秀吉死後の関ヶ原の戦いにおいても直茂が大将として参戦した。関ヶ原では西軍に与したが、同じ西軍の立花宗茂を攻略することで徳川家康より所領を安堵された。 慶長12年(1607年)、江戸において高房が急死した。これには、鍋島家に実権を握られて憤慨し失望した高房が、妻を殺害し自らも死のうとしたが果たせず、そのときの傷がもとでのちに亡くなった、という説がある。高房の死後わずか1か月後には、肥前に隠居していた父・政家も急死した。高房には遺児の伯庵、実弟の信清(のちの村田安良)・主膳がいたが、直茂の命で伯庵が出家するなどして龍造寺本家が事実上絶え、隆信と義兄弟の関係にあった直茂が、嫡男の勝茂に龍造寺家の家督を引き継がせる形で佐賀藩35万7千石を手にし、名実ともに大名となった。政家の遺領は信清が継ぎ、佐賀藩では龍造寺本家として扱われたが、慶長13年(1608年)4月4日付けで直茂・勝茂に忠誠を誓う起請文を提出し、鍋島家による領国支配が確立した。 慶長18年(1613年)、幕府より勝茂に領地安堵の沙汰が出たことで、ようやく安泰をみた。 徳川将軍家は、勝茂の嫡子忠直以降の歴代藩主に、松平の名字と将軍実名一字を授与した。
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