佐賀財閥の形成
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/31 07:24 UTC 版)
伊丹弥太郎は慶応2年12月12日(1867年1月17日)、佐賀県士族伊丹文右衛門の長男として生まれた。生家の伊丹家は、江戸時代には佐賀藩の御用商人であった家で、屋号を「鉄屋」と称し、深川家・古賀家とともに佐賀の富商として知られた。明治維新後は当主伊丹文右衛門の下で米穀業から金融業・酒造業・金物業などへと事業の裾野を広げ、1882年(明治15年)5月には一族の資力を集め家業の金融業を基礎として佐賀に栄銀行を設立した。 1893年(明治26年)3月に父文右衛門が病没すると伊丹は27歳で家督を継ぎ、父が創立以来頭取であった栄銀行の2代目頭取となった。以後伊丹は、市内の商家や一般市民に対する個人取り引きを積極化するなど銀行経営の近代化を推進する。さらに栄銀行以外にも、1895年(明治28年)に真宗信徒生命保険(後の東京生命保険)の設立に参加したのを契機に、佐賀貯蓄銀行(1896年)、佐賀セメント(1897年)、佐賀県農工銀行(1898年)、広滝水力電気(1906年)などと相次いで企業の設立および経営に関係し、事業の幅を広げていった。これらの会社は栄銀行と直接・間接の関係があり、事業の発展とともに栄銀行の業績も伸長した。また実業界の傍ら伊丹は佐賀県の大地主でもあり、大正の初めには佐賀県で首位の多額納税者であった。このように伊丹家は佐賀県に密着した地方財閥として発展し、姻戚関係にあり海運・造船・土地事業で発展した深川家とともに「佐賀財閥」を形成した。
※この「佐賀財閥の形成」の解説は、「伊丹弥太郎」の解説の一部です。
「佐賀財閥の形成」を含む「伊丹弥太郎」の記事については、「伊丹弥太郎」の概要を参照ください。
- 佐賀財閥の形成のページへのリンク