佐賀藩士 福地氏
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戦国大名龍造寺氏の実権を握っていた鍋島氏が佐賀藩主として認められ、龍造寺氏の支配が終焉すると肥前国の福地氏も鍋島氏に随い、佐賀藩士となった。 佐賀藩士 山本常朝が武士道の指南書として著した『葉隠』の聞書 第四 五十にも藩主 鍋島勝茂が有能な藩士と評した武士として福地吉左衛門の名が見える他、聞書 第六 一六六、聞書 第八 五七には福地孫之允なる藩士が中野休助と喧嘩になり切腹したが、介錯人であった小城の蒲池某がしそんじて浪人したこと、聞書 第七 三二には「千住善右衛門、討ち果たしのこと」という事案の検分役として福地市郎兵衛の名が見える。また、聞書 第八 五七には家老職の横岳鍋島家当主 鍋島主水配下に福地六郎右衛門の名が見え、同じく佐賀藩家老の多久長門守家臣を切腹の危機から救ったとある。 末裔には俳優の哀川翔(福地家宏)、哀川の次女で女優の福地桃子がいる。
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