佐賀美術協会の設立
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「佐賀美術協会展」の記事における「佐賀美術協会の設立」の解説
1913年、久米・岡田のほか山口亮一、田雑五郎、御厨純一、北島浅一といった、佐賀出身で東京美術学校(美校・後の東京芸術大学)の卒業生が上野の精養軒に集まって開いた会合で、若者が軍人や外交官ばかりに憧れ芸術文化に関心を払わないことを憂い、故郷に美術の土壌を培い、根付かせたいとの思いから美術協会を設立した。美校を卒業後、帰郷していた山口が運営の中心となり、山口の父で実業家の中野致明が後援団体の会長に就任して、翌1914年に開催された第1回展覧会には、洋画・日本画のほか、当時の文部省美術展覧会では除外されていた工芸の出品があり、この3部門に合わせて233点が出品されている。ただし、日本画67点、洋画159点に対し工芸は僅か7点であった。このころは東京美術学校の影響が強く、美校出身の創設メンバーだけでなく、地元からの出品者も美校を卒業後に佐賀で美術教師をしている者が多かった。僅かな工芸作品は全て金工で、現在主流の陶芸が一点も無かったのも当時の美校の学科に陶芸が無かったからと推察されている。また、展覧会の規約には「在京の者は美術学校在学の生徒に託して作品を佐賀に届ける」ことが決められていた。なお、展覧会のシンボルマークは東京美術学校の徽章をそのまま使ったもので、これは現在も使用が続いている。
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