佐賀軍の概要とは? わかりやすく解説

佐賀軍の概要

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/27 16:56 UTC 版)

佐賀の乱」の記事における「佐賀軍の概要」の解説

征韓論問題下野した参議江藤新平擁する中島鼎蔵等の征韓党と、前侍従秋田県権令島義勇副島義高等を擁する憂国党による混成軍。旧佐賀藩士を中心とした部隊であり、以後続発する士族による反乱嚆矢となった。 乱を率いた江藤と島は、そもそも不平士族なだめるために佐賀向かったが、政府強硬な対応もあり決起することとなった。しかし、半島への進出の際には先鋒務めると主張した征韓党と、封建制への復帰主張する反動的な憂国党はもともと国家観異な党派であり、各々党首である江藤と島がそりが合わない間柄であることも加わって主義主張共有してはいなかった。そのため、両党は司令部も別であり、協力して行動することは少なかったまた、戊辰戦争の際に出羽戦線参謀として名をはせた前山清一郎中心とする中立党の佐賀士族政府軍協力したほか、武雄領鍋島茂昌など反乱同調しないものも多く江藤らの目論んだ佐賀決起すれば薩摩西郷など各地不平士族続々後に続くはず」という考えは藩内ですら実現しなかった。 佐賀の乱における佐賀軍の総兵数詳しく判明していない。戦後行われた裁判では赦免となったものも含めると約11,000ほどになるが、明治5年版籍奉還時に提出され佐賀藩士の総数が約14,000ほどであることや、戦死者数200人以下であることを考えると、全てが乱に加担した人数では無いと考えられている。明治7年鎮圧当たった参謀少佐渡辺央らが西郷従道提出した降伏叛徒概計」に6,327人とあり、徳富猪一郎著書近世日本国民史 89』でこれが実数に近いであろう記している。しかし、これには戦闘参加せず降伏した数も含まれているとして、江藤新平の弟の孫に当たる鈴木鶴子氏が著書江藤新平明治維新」で征韓党が1500人、憂国党が3500人と記しているなど、およそ3,000人から6,000人ほどではなかったかとする説が主張されている。なお、記録に残るもので最も多いのは、佐賀城占拠後に山中一郎戦果喧伝するために各地出した手紙にある「憂国党が一万征韓党が五千、ほかにも各地から士族集まっている」とするものだが、これは明らかに誇大なものと観られている。逆に少ないものでは、新潟県士族桜井虎太郎による探索書(国立国会図書館三条家文書」に収録)に「蜂起した人員8000人余であるが真に暴挙及んだのは300名ほどであった。」との記載がある。

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