佐賀軍の概要
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征韓論問題で下野した前参議江藤新平を擁する中島鼎蔵等の征韓党と、前侍従・秋田県権令島義勇、副島義高等を擁する憂国党による混成軍。旧佐賀藩士を中心とした部隊であり、以後続発する士族による反乱の嚆矢となった。 乱を率いた江藤と島は、そもそも不平士族をなだめるために佐賀へ向かったが、政府の強硬な対応もあり決起することとなった。しかし、半島への進出の際には先鋒を務めると主張した征韓党と、封建制への復帰を主張する反動的な憂国党はもともと国家観の異なる党派であり、各々の党首である江藤と島がそりが合わない間柄であることも加わって主義主張を共有してはいなかった。そのため、両党は司令部も別であり、協力して行動することは少なかった。また、戊辰戦争の際に出羽の戦線で参謀として名をはせた前山清一郎を中心とする中立党の佐賀士族が政府軍に協力したほか、武雄領主鍋島茂昌など反乱に同調しないものも多く、江藤らの目論んだ「佐賀が決起すれば薩摩の西郷など各地の不平士族が続々と後に続くはず」という考えは藩内ですら実現しなかった。 佐賀の乱における佐賀軍の総兵数は詳しく判明していない。戦後に行われた裁判では赦免となったものも含めると約11,000ほどになるが、明治5年の版籍奉還時に提出された佐賀藩士の総数が約14,000ほどであることや、戦死者数が200人以下であることを考えると、全てが乱に加担した人数では無いと考えられている。明治7年に鎮圧に当たった参謀少佐渡辺央らが西郷従道に提出した「降伏叛徒概計」に6,327人とあり、徳富猪一郎は著書『近世日本国民史 89』でこれが実数に近いであろうと記している。しかし、これには戦闘に参加せずに降伏した数も含まれているとして、江藤新平の弟の孫に当たる鈴木鶴子氏が著書「江藤新平と明治維新」で征韓党が1500人、憂国党が3500人と記しているなど、およそ3,000人から6,000人ほどではなかったかとする説が主張されている。なお、記録に残るもので最も多いのは、佐賀城占拠後に山中一郎が戦果を喧伝するために各地に出した手紙にある「憂国党が一万、征韓党が五千、ほかにも各地から士族が集まっている」とするものだが、これは明らかに誇大なものと観られている。逆に少ないものでは、新潟県士族桜井虎太郎による探索書(国立国会図書館蔵「三条家文書」に収録)に「蜂起した総人員は8000人余であるが真に暴挙に及んだのは300名ほどであった。」との記載がある。
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