島津久逵
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時代 | 江戸時代前期 - 中期 |
生誕 | 慶安4年10月5日(1651年11月17日)[1] または同年10月15日(同年11月27日)[2] |
死没 | 享保4年8月20日(1719年10月3日)[3] |
改名 | 虎三郎(幼名)→伊勢貞朝(初名)→佐多久逵→島津久逵 |
別名 | 通称:市右衛門、内記、豊前、備前 |
戒名 | 瑞祥院殿昭麟一角大居士[3] |
墓所 | 鹿児島県南九州市知覧町郡の島津墓地 |
主君 | 島津光久→綱貴→吉貴 |
藩 | 薩摩藩国老 |
氏族 | 島津氏→伊勢氏→佐多氏→知覧島津家 |
父母 | 父:島津光久 養父:伊勢貞衡、佐多久利 |
兄弟 | 綱久、久定、忠長、久逵、久理、久明、 入来院重矩、久房、ほか |
子 | 久基、久豪 |
島津 久逵(しまづ ひさみち)は、江戸時代前期から中期にかけての薩摩藩士。知覧島津家(佐多氏)16代当主。
生涯
慶安4年(1651年)、藩主・島津光久の五男として生まれる。初めは旗本伊勢貞衡の養子となり貞朝と名乗る。寛文6年(1666年)4月、将軍・徳川家綱に御目見する。寛文12年(1672年)、養父に実子・貞守が生まれたことにより実家に戻り、改めて佐多丹波久利の養子となる。知覧地頭職となり領主と兼任する。
延宝4年(1676年)、城代となる。延宝5年(1677年)、頴娃地頭職。延宝8年(1680年)、城代と国老を兼任し職田2000石を賜る。加世田地頭職となる。元禄6年(1693年)、藩主・島津綱貴の参勤に随行して、江戸に下り江戸城で将軍・徳川綱吉に拝謁する。元禄10年(1697年)、国老を免じられ城代に専任する。職田2000石はそのまま給された。
正徳元年(1711年)、藩主・島津吉貴より、島津姓を代々名乗ることを許された。享保3年(1718年)、隠居して次男の久豪に家督を譲る。光久、綱貴、吉貴の3代に城代として仕えた功績を賞されて、年100俵を給された。翌享保4年(1719年)8月20日死去、享年69。
脚注
参考文献
- 『知覧郷土史』
- 島津久逵のページへのリンク