島津久逵とは? わかりやすく解説

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島津久逵

(佐多久逵 から転送)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/05/21 09:15 UTC 版)

 
島津久逵
時代 江戸時代前期 - 中期
生誕 慶安4年10月5日1651年11月17日[1]
または同年10月15日(同年11月27日[2]
死没 享保4年8月20日1719年10月3日[3]
改名 虎三郎(幼名)→伊勢貞朝(初名)→佐多久逵→島津久逵
別名 通称:市右衛門、内記、豊前、備前
戒名 瑞祥院殿昭麟一角大居士[3]
墓所 鹿児島県南九州市知覧町郡の島津墓地
主君 島津光久綱貴吉貴
薩摩藩国老
氏族 島津氏伊勢氏佐多氏→知覧島津家
父母 父:島津光久
養父:伊勢貞衡佐多久利
兄弟 綱久久定忠長久逵久理久明
入来院重矩久房ほか
久基、久豪
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島津 久逵(しまづ ひさみち)は、江戸時代前期から中期にかけての薩摩藩士。知覧島津家(佐多氏)16代当主。

生涯

慶安4年(1651年)、藩主・島津光久の五男として生まれる。初めは旗本伊勢貞衡の養子となり貞朝と名乗る。寛文6年(1666年)4月、将軍徳川家綱御目見する。寛文12年(1672年)、養父に実子・貞守が生まれたことにより実家に戻り、改めて佐多丹波久利の養子となる。知覧地頭職となり領主と兼任する。

延宝4年(1676年)、城代となる。延宝5年(1677年)、頴娃地頭職。延宝8年(1680年)、城代と国老を兼任し職田2000石を賜る。加世田地頭職となる。元禄6年(1693年)、藩主・島津綱貴の参勤に随行して、江戸に下り江戸城で将軍・徳川綱吉に拝謁する。元禄10年(1697年)、国老を免じられ城代に専任する。職田2000石はそのまま給された。

正徳元年(1711年)、藩主・島津吉貴より、島津姓を代々名乗ることを許された。享保3年(1718年)、隠居して次男の久豪に家督を譲る。光久、綱貴、吉貴の3代に城代として仕えた功績を賞されて、年100俵を給された。翌享保4年(1719年)8月20日死去、享年69。

脚注

  1. ^ 『鹿児島県史料拾遺 18』鹿児島県史料拾遺刊行会、1985年、p.68。
  2. ^ 『知覧町郷土誌』知覧町、1982年、p.251。
  3. ^ a b 『知覧町郷土誌』知覧町、1982年、p.258。

参考文献

  • 『知覧郷土史』



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