伝記上の注意点
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/19 11:11 UTC 版)
従来、島崎赤太郎について正確な伝記がなかったことから、反対派閥当事者による誤った伝聞ばかりが引用されることが多かった。以下にその内容を示す。 例えば、島崎らが1904年(明治37年)に東京音楽学校の外国人教師、ノエル・ペリを排除したという、風評に基づく俗説が従来の音楽史家の間に広まっていた(文化功労者となった田辺尚雄著『明治音楽物語』参照)。 しかし、この田辺の著作に記述された島崎に関する風評は検証可能な歴史事実ではない。出国、帰国の記録から、事件自体島崎のライプツィヒ留学中に起こった出来事であり、島崎には全く関係がなかった。時期が合わないうえ(乗船名簿、官報で確認《赤井 励による》、島崎は留学中、既に教授就任していたため、ペリは何ら邪魔でなかった《中村理平博士が確認》)。島崎の帰国年が間違って記載されている文献もある。ノエル・ペリが編纂した『オルガンの友』が島崎夫人の実家である共益商社から発行されていたことは確認でき、それがカトリック教会、東京音楽学校から離れたノエル・ペリにとっての主要な収入源の一つであった。留学前に同僚であったノエル・ペリを帰国後の島崎が支援していた可能性がある。なぜなら島崎の直弟子、草川宣雄が1934年(昭和9年)に書き残した記録(「学校音楽」共益商社;島崎赤太郎先生追悼号)によれば、島崎はノエル・ペリの教科書を授業で使っていたほどであった。金永鍵によれば、ペリの辞職はカトリック教会との軋轢であった(「国際文化」1941年8月号)。以上の具体的資料群が田辺尚雄による「伝聞」と整合しない。 島崎が未成年の明治20年代中期、ルドルフ・ディットリヒに対するストライキ事件についても、田村虎蔵を被害者として島崎を告発する書がある。が、『「信濃の国」物語』(北村季晴伝)によれば停学処分を受けたのは北村であり田村ではなかった。田村と前述の田辺尚雄が文部省編「尋常小学唱歌」ついて編纂当初から強く批判してきたことは、有識者には知られてきた。遠藤宏『明治音楽史考』ではストライキ計画を事前に学校側に密告したのは田村虎蔵だと記述。しかしこれも、『明治音楽史考』発行当時、すでに故人だった岡野貞一よりの「伝聞」だとある。遠藤宏は東京音楽学校に勤務したのが島崎の没後であるうえ、『明治音楽史考』の中で明治期に編纂された文部省編「尋常小学唱歌」を無視した人物である。現代の精密な歴史学の一般傾向として、動乱期だった明治から昭和期の書物は安易に引用せず、両論の相互を資料で確認する慎重な吟味が必要であろう。このように、近年その業績が整理されつつある島崎について、不確かな伝聞を使用せず、新たな史料発掘と史料批判による徹底した再考が必要である。その結果として、より普遍的な、新しい島崎像が確立することが望ましい(両論併記という立場から本文に追記)。
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