伝記史料
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ティムールの存命中、彼の伝記を編纂する計画が一度持ち上がったが、その大仰かつ過剰な記述と表現を嫌ったティムールによって却下された。 1424年頃にヤズド出身のサラーフッディーン・アリー・ヤズディー(英語版)が著したペルシア語の年代記『勝利の書(ザファル・ナーマ(英語版))』は、ティムールと孫のハリール・スルタンの事績を記している。ティムールの事績が誇張されている箇所も存在するが、宮廷資料を使って具体的な事実を記録している点で他の伝記より優れていると考えられている。16世紀初頭にシャイバーニー朝の君主クチュクンジ・ハーン(ロシア語版、カタルーニャ語版)(在位:1510年 - 1531年)の命令によって『ザファル・ナーマ』はチャガタイ語に訳され、さらに諸言語に訳された。 また、15世紀初頭にはヤズディーの『勝利の書』と同名の年代記がニザーム・アッディーン・シャーミー(英語版)によって編纂されている。シャーミーの『勝利の書』は1402年から1404年の間にティムールの命令によって編纂が開始された史書であり、ティムールの考えが反映されている信頼性を評価されている。しかし、以前に別の伝記が大言壮語を含む記述によって却下された経緯により、記述は簡素で情報量はやや少ないものとなった。 ダマスカス出身のアフマド・イブン・アラブシャー(英語版)は12歳のときにサマルカンドに連行され、ティムールが亡くなるまで2年の間を彼と生活を共にした。アラブシャーは後年ティムールの伝記を記し、その記述は彼の才能を認めながらも、また憎しみも含んでいた。 時代は下り、1627年にムガル帝国のシャー・ジャハーンに、ティムール自身が41歳までの前半生を記した自伝『ティムール法典』(Tuzk-e-Taimuri、"Memoirs of Temur")が献呈された。1610年にオスマン帝国のイエメン総督ジャアファル・パシャの図書館で発見されたもので、アブーターリフ・アル・フサイニーがチャガタイ語からペルシア語に訳した。『ティムール法典』は英語、フランス語、ロシア語など多くの言語に翻訳されたが、チャガタイ語の原本は確認されておらずティムール朝の記録でも自伝の存在は確認できない。実際にティムールが編纂に携わったか否かについては議論が分かれているが、後世に書かれた偽書と仮定しても、ムガル帝国時代の事情が反映されている史書としての価値を評価されている。
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