会議の経過
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/27 07:59 UTC 版)
海軍は、上記の作戦計画から次の三大原則をもって臨んだ。優先事項は順位の通りである。 補助艦 対米比率7割 潜水艦 現有戦力維持(7万8千トン) 大型巡洋艦 対米比率7割 1930年(昭和5年)3月14日、米国側は対米6割前後の腹案であったが、若槻禮次郎、松平恒雄らの全権団による交渉の結果、 補助艦 対米比率6割9分7厘5毛 潜水艦 日米同量 (5万8千トン) 大型巡洋艦 対米比率6割 で妥協案が出来上がった。 3月17日、海軍は軍縮条約に不満があるという海軍当局の声明が夕刊に掲載されたが、海軍省が関知しないものであり、加藤寛治も知らないものであった。この声明により海軍部内に対立があることが表面化したが、声明をもらしたのは末次であった。政府は海軍側の意向を受けて軽巡洋艦及び駆逐艦を減らし、大型巡洋艦及び潜水艦の増加を求めるよう回訓した。 3月22日、全権団から会議決裂の覚悟がなければ、新提案は無益との回答が来る。 4月1日、首相・濱口雄幸は海軍首脳の岡田啓介、加藤寛治、山梨勝之進に了解を求める。海軍首脳は海軍の要望を受け入れることを条件に賛成し、同日午後の閣議で今後は航空兵力の増強に努める等の要望事項が了解され回訓発信となった。なお末次は海軍側の協議でこの回訓の発信に賛成している。末次はこの数日後、航空兵力増強策で海軍の意向を取りまとめた山梨に対し、「良いものを出してくれてよかった。そのへんで納まるよ」と語っている。 4月2日、末次は黒潮会(海軍省記者クラブ)に不穏文書を発表しようとして海軍省に抑えられる。このことは表面化しなかったが、末次は海軍省事務取扱でもあった濱口総理に呼ばれ回訓に沿って努力するよう求められる。末次は了承し、3月17日の声明につき直立不動で次のように謝罪した。 先に不謹慎なる意見を発表したるは全く自分一己の所為にして、甚だ悪かりし、自分は謹慎すべきなれども目下事務多端なれば毎日出勤しおれり、なにとぞしかるべき御処分を乞う — 『岡田啓介回顧録』より引用 4月5日、貴族院議員との会合に出席した末次は秘密事項に触れ、それは文書となって一部に流出した。一連の行為は濱口の怒りを買い、政府内部で問題化した。海軍側では末次が公開の場で政治を語ったとして海軍省法務局で末次の処分が検討された。末次の行動は加藤寛治さえ持て余すものであった。 4月17日、末次は加藤寛治から戒告を受ける。なお4月から5月にかけて末次宛に機密費が集中して支出されており、政治家や右翼団体への工作費ではなかったかとの推測がある。 6月7日、昭和天皇に軍事の進講をした際、軍縮条約に強硬に反対する旨を述べた。これは既に軍縮条約締結に賛成した海軍省及び軍令部の方針に反するもので、天皇の不興を買った。 6月10日、末次、山梨勝之進はそれぞれ軍令部次長、海軍次官から更迭された。
※この「会議の経過」の解説は、「末次信正」の解説の一部です。
「会議の経過」を含む「末次信正」の記事については、「末次信正」の概要を参照ください。
- 会議の経過のページへのリンク