会議の流れ
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/11 08:24 UTC 版)
7月17日、ベルリン郊外ポツダムにあるツェツィーリエンホーフ宮殿に三大国の首脳、アメリカのトルーマン大統領、イギリスのチャーチル首相、ソ連のスターリン書記長が集まった。会議が始まったのは午後5時だった。トルーマンは会議の冒頭でアメリカ側提案として「平和条約を締結するための外相会議の設立」、「ドイツ占領統治政策の決定」、「イタリア・ギリシャ・ハンガリー・ルーマニア・ブルガリアの選挙を監督する共同行動」、「イタリア王国の休戦条約緩和と国際連合への加入」を挙げた。チャーチルはアメリカ提案を検討する前に研究が必要であると述べたが、イギリスとしては提案は特に存在しないとした。スターリンは会議で取り上げるべき議題として「ドイツ船舶の処分」、「賠償」、「イタリア植民地のソ連による信託統治」、「ルーマニア、ポーランド(ポーランド国民解放委員会、ルブリン政権)、ハンガリー(ハンガリー臨時国民政府)の親ソ連政権の米英による承認」、「スペインのフランシスコ・フランコ政権問題と、タンジェ問題」、「シリア・レバノン問題」、「ロンドンにあるポーランド亡命政府の消滅」をあげた。 特に紛糾した三つの問題、ポーランド問題、賠償問題、旧枢軸国に成立した各政府の扱いをめぐってイギリスとソ連は強く対立した。またチャーチルはブルガリアによるギリシャ攻撃計画をあげ、ソ連を批判した。スターリンはその議題は会議の予定に無く、非公式に討議するべきだと回答した。さらにチャーチルはユーゴスラビアのヨシップ・ブロズ・チトーが民主主義者と協力しない姿勢を明確にしていることも批判したが、スターリンはユーゴスラビア代表が参加していないとして討議を拒否した。さらにルーマニアにある英米資本の石油施設をソ連が接収したこと、ソ連が占領するウィーンに英米の士官が入れないことなど次々に批判した。会議の最中、イギリスの総選挙では保守党が大敗し、チャーチルが首相を辞任。労働党のクレメント・アトリーが首相に就任。チャーチルに代わってアトリーが会議に参加したが、イギリスの主張は変わらず、英ソの対立は頂点に達した。決裂を予期したトルーマンは協定が成立しなくても帰国しようとすら考えていた。7月30日、ジェームズ・F・バーンズ国務長官は協定を成立させるため、英ソの外相に働きかけてアメリカ側の三条件を策定し、これに合意が見られない場合にはアメリカが8月1日に会議を離脱すると通告した。この文書では「ポーランド国境」「ドイツの賠償」「イタリア・ブルガリア・フィンランド・ルーマニア・ハンガリー各政府の状態」について触れられている。この「バーンズ提案」を三国が受け入れたことにより会議は決裂を免れ、占領下ドイツの経済問題に討議の主題は移った。
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