会議の終了
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/10 03:41 UTC 版)
4月18日、ドイツ側代表の招請状がドイツに到着した。4月24日にはフィウメ(伊: Fiume、現リエカ)及びダルマチアの帰属に関する問題に抗議してオルランドが帰国し、5月5日になって会議に復帰した。4月28日の総会で国際連盟規約案が第5条修正を行った後に採択された。 5月7日にブロックドルフ=ランツァウ外相を首席とするドイツ代表が231条(英語版)(戦争責任条項、英: War Guilt Clause)を含む講和条約案を受け取り、5月29日に反対提案を行った。ロイド・ジョージはいくつかの点で修正に応じようとしたが、クレマンソーやウィルソンは断固として修正を拒否した。6月2日にはドイツ=オーストリア共和国 に対して講和条約案提示が行われたが、ズデーテン地方の割譲などを定めた「恐るべき文書」に対してオーストリア政府も受諾を拒否した。 6月3日、7日、10日には賠償問題をめぐって最後の四人会議が開催されたが、賠償総額についての結論は出なかった。連合国側の回答期限当日の6月23日にドイツは条約受諾を発表し、6月28日にヴェルサイユ条約の調印が行われた。7月にウィルソンが帰国し、講和会議自体は終了した。7月20日にオーストリアに対して第二次草案が提示され、9月2日には最終案が提示された。オーストリアは受諾し、9月10日にサン=ジェルマン条約が締結された。同日、チェコスロバキアと主たる連合国(五大国)間で少数民族保護条約(英語版)が締結され、チェコスロバキア内のドイツ人保護が義務づけられた。
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