皇帝の反応
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/12 04:19 UTC 版)
事件発生時、ヴィルヘルム2世はドナウエッシンゲンにあるフュルステンベルク侯マックス・エゴン2世(ドイツ語版)の所有地で狩をしていた。これはかなり前から予定されていたとはいえ、皇帝が事件に無関心であるという悪い印象が残った。皇后アウグステ・ヴィクトリアが列車でドナウエッシンゲンに駆けつけて、ベルリンに戻るように皇帝を説得したという噂が流れた。歴史家のヴォルフガング・モムゼンによれば、この時点ではヴィルヘルム2世はエルザスで発生した事件が政治に与える影響を過小評価していたという。ヴェーデル総督は事件を過激で違法だと報告し、事件解決のために皇帝と個人的に話し合いたい旨願い出たが、ヴィルヘルム2世はしばらく待つように回答している。まずはシュトラースブルクの軍司令部の報告を待ってからということであった。 11月30日、プロイセン戦争相のエーリッヒ・フォン・ファルケンハインとダイムリンク、それに何人かの高官がドナウエッシンゲンに到着し、6日間にわたって会議を重ねた。ヴィルヘルム2世が軍事的観点からしか意見を聞きたがっていなかったようであったため、国民の怒りは増していた。無視された帝国宰相のベートマン=ホルヴェークはますます圧力を受けるようになり、ようやく会議の終了間近になって参加した。会議の結果は、大部分の国民から見て幻滅に終わった。皇帝が軍の行為を承認し、越権行為を信ずるに足る理由は無いとしたからである。ダイムリンクはツァーベルンに司令官を送り、12月1日文民政府の権力が回復した。
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