皇帝の慰め
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/13 09:31 UTC 版)
「カタリーナ・シュラット」の記事における「皇帝の慰め」の解説
1889年、1月30日、ルドルフ皇太子がマリー・ヴェッツェラとマイヤーリンクで心中した後には、カタリーナはすぐさま皇帝夫妻の許に駆けつけ、2人にお悔やみを言った。弟マクシミリアン、息子ルドルフと、フランツ・ヨーゼフに肉親の悲劇の死が相次いだが、1898年9月10日には、エリーザベトがジュネーヴで無政府主義者ルイジ・ルケーニに暗殺された。フランツ・ヨーゼフは、今のスイスには無政府主義者が多く潜伏しているとして、エリーザベトがスイスに旅行に行く事を止めていたのだった。 エリーザベトが暗殺された当日、カタリーナは、ザルツブルク州山間部のツェル・アム・ゼーで静養中だったが、エリーザベト暗殺の知らせを聞くとすぐにウィーンにとって返した。フランツ・ヨーゼフはカタリーナに深く感謝し、「かけがえのない友! 帰って来て下さり、どうもありがとう。故人をしのぶ話し相手として、あなたの他に誰がいるでしょう。11時からお待ちしておりますので、どうぞ庭を通らず、私の続き部屋を通ってお越しください。ではまた、あなたのフランツ・ヨーゼフ」という電報を打っている。エリーザベトの形見としてカタリーナは、金製の聖ゲオルギウス記念メダルが付いたブローチを賜った。エリーザベトの死後もフランツ・ヨーゼフとカタリーナ・シュラットの付き合いは続き、カタリーナは苦労の多い孤独な皇帝を労わり、慰めた。晩年のフランツ・ヨーゼフの楽しみは、シェーンブルン宮殿にあった旧オランダ庭園の敷地内にある、棕櫚園をカタリーナ・シュラットと連れ立って見て回る事だった。1916年11月16日にはフランツ・ヨーゼフが死去する。 カタリーナ・シュラットは1940年に死去した。
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