皇帝の最後
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/04 09:47 UTC 版)
度重なるヘリオガバルス帝の奇行に周囲は耐えかねており、近衛隊も皇帝の異様な行動に嫌悪感を感じていた。加えて宮殿外でも一部の民衆や元老院が皇帝への不満と怒りを高めていた。 エル・ガバルをローマの主神にすえ、隕石を御神体とするエラガバリウムを建てさせた皇帝は、楽器を打ち鳴らすどこぞで知り合ったのか得体の知れぬような謎の女の一団を引き連れ、自身の性器を股に挟みながら全然で踊り神殿に向かい、屠殺した獣の血を混ぜたワインを捧げ、香をたいた。踊りながら神殿の周囲をめぐり、誰もがトランス状態になったとき、皇帝は青年を生け贄として神殿に捧げたという。この行動には、多数の市民が怒りの声をあげた。 王族内においても、影の実力者である祖母ユリア・マエサが孫に対して見切りを付けつつあった。しかし、ともに実権を握っていたヘリオガバルスの母ユリア・ソエミアス(英語版)だけは宗教政策を積極的に後押しするなど息子への協力を続けていた。そこでマエサは、ソエミアスの妹である次女ユリア・アウィタの息子で、マエサからは別の孫にあたるアレクサンデル・セウェルスを後継者とする計画を立て、221年、ヘリオガバルス帝に対し従弟アレクサンデルを養子にするよう認めさせ、アレクサンデルにはカエサル(副帝)の称号を名乗らせた。アレクサンデルはヘリオガバルスの5歳年下であった。いったん養子縁組を承知したヘリオガバルス帝であったが、近衛隊の兵士たちがアレクサンデルに接近し始めたことから途中で危機感を覚え、養子縁組を取り消した。アレクサンデルは近衛兵からの人気が高かった。 ヘリオガバルスは失脚したアレクサンデルを閉じ込め、近衛兵たちには既に死亡したと伝えた。しかし、これが逆に彼の命取りとなった。近衛隊は激昂して皇帝に対する反乱を起こし、ヘリオガバルスに対し、アレクサンデルの生死の確認とその責任を取るよう求めた。恐怖を感じたヘリオガバルスは慌ててアレクサンデルの生存を発表して、従弟を解放した。3月11日、近衛隊の城砦に逃げたアレクサンデルは歓声をもって迎えられ、兵士のほとんどがヘリオガバルスを裏切り、近衛兵は即座にアレクサンデルを指導者として反ヘリオガバルスの軍勢を挙げ、宮殿へと進軍した。 全ての後ろ盾を失ったヘリオガバルスは母ソエミアスとともに反乱軍に捕らえられた。同時代を生きたカッシウス・ディオによれば、2人は揃って辱めを受けた後に、処刑され、遺体は激昂した市民たちによってテヴェレ川に捨てられたという。 …怯えたヘリオガバルスは最後の気力で衣類箱の中に隠れ、宮廷から逃げようとしたが、反乱軍に見つけられて広場に引き出された。この時も女性の衣服を纏っていたヘリオガバルスだったが、集められた彼女に恨みを持った女性市民によって、先ず性器の部分だけ穴を開けられ、ペニスを露出させられた後、複数人の女性に引っ張られ、蹴られ、更に一部の女性は挑発するようにヘリオガバルスに女性器を見せつけ、長く伸びた髪の毛を切り、嘲笑しながら男湯に放り込むなど、罵声を浴びながらありとあらゆる辱めを行った。兵士はヘリオガバルスに辱めを与える為にわざと恨みの深い女性市民を集め、ありとあらゆる羞恥的な暴行を行わせた。女性や平民に対して友好的なヘリオガバルスに対し、支持する女性、親交のある女性も多かったが、それと同時に旦那や息子を殺められ、恨みを持つ女性も多かった。ソエミアスは泣き喚きながら息子に抱きつき、ヘリオガバルスも必死に命乞いをしたが、兵士たちはヘリオガバルスの性器を切り落として殺害した。ソエミアスも同じ時に殺害された。性器の無いヘリオガバルスの遺体は裸体のまま馬に乗せられて市中を引き回された。憎まれた18歳の皇帝の遺体は晒し者にされた後、首も切り落とされ、川へ投げ出された。 皇帝の死によってエウティキアヌスやヒエロクレスなどの取り巻きたちも殺害され、太陽神の神体であった黒い聖石はシリアに送られ、エル・ガバル神も地方の土着信仰へと送られた。女性の元老院への関与も明確に禁止され、かつてマクリヌスに課した「名誉の抹殺」を自らも受けることになった。 新しい皇帝として即位したのはヘリオガバルスの従弟で、14歳の副帝アレクサンデル・セウェルスであったが、彼もまた母親に政治を委ねたあげく、兵士への手当の支給を怠って母子ともに殺された。
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