皇帝の政策への批判と反帝制運動
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「ルーホッラー・ホメイニー」の記事における「皇帝の政策への批判と反帝制運動」の解説
そして第二次世界大戦中の1941年頃から、モハンマド・レザー・パフラヴィー皇帝の独裁的な西欧化政策に対する不満を表明する。その後1963年に、皇帝が宣言した「白色革命」の諸改革に潜むイラン皇帝の独裁的な性格を非難、抵抗運動を呼びかけて逮捕される。この時は釈放されるものの政府批判を続け、翌年1964年、ついにホメイニーの国民への影響力を恐れたパフラヴィー皇帝に拉致され、国外追放を受け亡命した。 この「白色革命」を含む皇帝の政策は、石油のアメリカ合衆国やイギリス、日本などへの輸出による豊富な外貨収入を背景にした工業化と西欧化を中心に据えたものであるものの、西欧的で世俗的なだけでなく、多分に独裁的な性格が強く、さらにイランの内情や国民の生活を省みない急激な改革を行ったために貧富の格差が増大した。これらのことに国民は反発して抵抗運動が起きた。ホメイニーはこの運動のシンボル的な存在だった。 その後、トルコに滞在した後に、イラクのシーア派の聖地ナジャフに移ったホメイニーは、イラン国民に改革の呼びかけを行う一方、ここでシーア派のイスラム法学者がお隠れ(ガイバ)中のイマームに代わって信徒の統治を行わなければならないとするホメイニ以前からあったシーア派の理論をさらに発展させた「法学者の統治論(ヴェラヤティ・ファキーフ)」を唱えた。 このイラク滞在時に長男が突然死しているが、パフラヴィー皇帝の「サヴァク」による暗殺とみられている。1978年にイラクを離れ、フランスに亡命してからも、一貫して国外からイラン国民へ皇帝への抵抗を呼びかけ続けた。
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