皇帝の母として
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/18 22:55 UTC 版)
「ゾフィー (オーストリア大公妃)」の記事における「皇帝の母として」の解説
1848年革命の波がオーストリア帝国にも襲いかかると、ゾフィーは君主政を護持することを強く決意した。大公妃は才知と精力を備えた有能な女性であり、息子のフランツ・ヨーゼフ1世の治世初期には、ウルトラモンタニズムに代表される保守主義の庇護者として、オーストリア帝国の政治に絶大な影響力を及ぼした。帝国の臣民たちは、ゾフィーを密かに「宮廷内のただ一人の本物の男だ(den einzigen Mann bei Hofe)」と評していた。ゾフィーが皇帝の母として大きな権力を持った時代に、抑圧されたハンガリー人はゾフィーを激しく憎悪した。ゾフィーを嫌っていた嫁で姪の皇后エリーザベトは、機会あるごとに姑を嫌うハンガリー人を贔屓にすることで、姑に反抗しようとした。 ゾフィーは初孫で自分の名を受け継いだゾフィー大公女(フランツ・ヨーゼフの長女)の洗礼の代母を務めた。ゾフィーはエリーザベトとフランツ・ヨーゼフから3人の孫の養育権、命名権を完全に奪ったが、1865年、皇太子である孫のルドルフが厳格な教育が原因で神経過敏になっていることを憂いたエリーザベトのフランツ・ヨーゼフへの嘆願により、養育権がエリーザベトに移され、権力を失っていった。更に1867年に次男のマクシミリアンがメキシコで処刑され、大西洋をわたりオーストリアに移送された銃殺された彼の遺体と対面すると「なんと可哀そうに、罪人のように処刑されるとは!」と嗚咽を漏らした。愛息の非業の死を見てからは、すっかり気落ちして生きる気力を失った。 1872年の春、ゾフィーは観劇のために訪れたブルク劇場が余りにも暑かったことから、王宮に戻った際に薄いイブニングドレスを着たままバルコニーで涼もうとして眠り込んでしまい、体を冷やし過ぎて肺炎に罹り、そのまま亡くなった。オーストリアの宮廷で圧倒的な影響力を持った女丈夫のあっけない死であった。病に倒れたゾフィー大公妃を必死に看病し、大公妃の最期を看取ったのは激しい対立関係にあったエリーザベトである。ゾフィーは最期になってエリーザベトと初めて和解したといわれている。遺骸はカプツィーナー納骨堂内部のライヒシュタット公爵と息子マクシミリアンの遺骸の間に安置された。
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