皇帝の謝罪
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/12/23 06:38 UTC 版)
「グレゴリウス7世 (ローマ教皇)」の記事における「皇帝の謝罪」の解説
予想外の結果だった。ハインリヒ4世はあっというまに窮地に追い込まれていた。教皇使節アルトマン司教の呼びかけに応えて、諸侯たちは新しいローマ王を選出すべく10月に会合を開いた。ハインリヒ4世はライン川西岸の都市オッペンハイムに滞在していたが、諸侯たちが誰を後継とするかで結論が出せなかったため、ぎりぎりのところで王位剥奪を免れた。しかしそれも時間の問題で、このままでは確実に王位を奪われてしまうことになる。会議ではハインリヒ4世に対して教皇への謝罪と服従の誓いを要求していた。これが彼の破門から一年後の日までになされない場合、諸侯による後継王の結論がでなくとも王位は空位とみなすという決定がなされたのである。 また同会議はグレゴリウス7世自身に仲裁役および権威の付与者としてアウクスブルクでの会議への参加を要請した。ハインリヒ4世には教皇との和解しか道は残されていなかった。一刻も早く和解しなければ、王位を奪われるだけでなく、敵対者の武力攻撃すら許すことになる。この時代には破門された人間には法的庇護がないのである。ハインリヒ4世は教皇に使者を送って和解を申し入れたが拒否されたため、自ら教皇と会うことを決めた。 教皇はそのころ、会議に参加すべくローマを出てマントヴァに至った。ハインリヒ4世はブルゴーニュを経て北イタリアへやってきた。彼はロンバルディア諸侯の歓迎を受けたため、武力で教皇を屈服させようかとも考えたが、その後の混乱を考慮して、教皇の滞在するカノッサに赴いて直接謝罪を行うことにした。 このハインリヒ4世の教皇への直接謝罪という出来事はすぐに知れ渡ることになる。いわゆる「カノッサの屈辱」といわれる出来事である。教皇は迷った。政治的に考えれば、王を許したところで自分に何のメリットもない。王が以前、自らの危機において服従を誓ったものの、状況が好転すると手のひらを返すように教皇に敵対したことを考えれば許すことによって招かれる状況は予想できるものだった。しかし、罪のゆるしを乞う人物を無視することは彼の聖職者としての良心が許さなかった。皇帝は許され、破門を解かれた。王の破門が解除されたことを受けて教皇はローマに戻り、ドイツ諸侯は落胆した。 しかし王が許されたといっても、叙任権をめぐる問題は何も解決していなかった。ハインリヒ4世は破門解除にともなって王位剥奪も無効化されたと考えたが、教皇は王位剥奪を保留することで彼に歯止めをかけようと考えていた。2人が再び争うことは避けられなかった。
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