皇帝カンタクゼノスの治世
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/03/14 04:58 UTC 版)
「ヨハネス6世カンタクゼノス」の記事における「皇帝カンタクゼノスの治世」の解説
内乱は終結したものの、この六年間の間に帝国は荒廃した。特に、マケドニア、テッサリア、エピロスといったバルカン西部の諸州は殆どがドゥシャンの手に渡り、彼は1346年にスコピエで「セルビア人とローマ人の皇帝」として戴冠し、今や東ローマを凌ぐ勢いを見せた。また、唯一残されたテッサロニキは相変わらず熱心党の支配下にあってカンタクゼノスの統治を拒否していた。府主教に任命された高名な神学者グレゴリオス・パラマスも彼らの反対で着任出来ないままであった。 また、カンタクゼノスは首都対岸のガラタス(ガラタ、別称ペラ)に拠るジェノヴァ人との間にも深刻な対立を抱えていた。その起源は1329年のジェノヴァ人によるキオス島不法占拠を巡る争いに遡るが、彼らは内乱に乗じて1346年再び同島を占拠してしまった。カンタクゼノスは新たに軍艦を建造し艦隊を編成してこれに戦いを挑んだが、練度の低さの為ジェノヴァ海軍に完敗を喫した(1349年)。 カンタクゼノスはジェノヴァとの戦争から一時手を引き、ヨハネス5世を伴ってテッサロニキに赴いた。市内ではセルビアに開城しようとする熱心党に対する反動クーデターが起きて政権が打倒され、カンタクゼノスは漸くこの都市に入城する事が出来た(1350年)。しかし、その後カンタクゼノスの様々な尽力にも拘わらず、帝国はセルビアに奪われた領土を殆ど回復する事は出来ず、どうにかテッサロニキと周辺地域を確保するに留まった。カンタクゼノスはここにヨハネス5世を統治者として据えた。彼はテッサロニキをはじめとして、縮小し外敵の脅威にさらされた帝国領土を保全する為、息子や血縁者に専制公などの称号を与えた上で地方行政官に任命した。その一つが次子マヌエルが派遣された(1349年)モレアス専制公領である。 ジェノヴァとの争いはなおも続いた。その頃同じくジェノヴァと対立を深めていたヴェネツィア共和国はアラゴン王ペドロ4世と同盟を結び、カンタクゼノスもこれに加わる事になった。1352年2月13日にボスポロス海峡で両海軍が海戦に臨むも決着は付かず、同盟は解体してここに和平条約を結ぶ事になった。そもそもの争いの発端であったキオス島はジェノヴァ人の手に渡り、帝国からは完全に失われた。 ジェノヴァとの争いが一段落した後もカンタクゼノスは戦争から解放されなかった。遠くテッサロニキに留め置かれたヨハネス5世は自らの立場に不満を覚えていた。戦争が終わったその年、彼はセルビア及びブルガリアと同盟を結んで反乱を起こし、帝国は再度内乱に見舞われる事になった。トラキア地方に進軍したヨハネス5世陣営に対し、ヨハネス6世は再びオルハンとの同盟に頼った。オルハンは彼の期待に応え、その長子スレイマンは10, 000人の騎兵を率いてバルカンに渡ると、マリツァ河畔でヨハネス5世陣営の連合軍に完勝した。ヨハネス5世はテッサロニキに退き、一旦国外に亡命を余儀なくされた。 パレオロゴス家を帝権から排除したヨハネス6世はカンタクゼノス王朝の創設に一歩を踏み出し、長子マタイオスを正式に共同皇帝・後継者に擁立しようとする。当時の総主教カリストス1世はマタイオスへの戴冠を拒否して罷免され、後任のフィロテオス1世コキノスによってマタイオスは1353年4月、皇帝として戴冠を受けた。
※この「皇帝カンタクゼノスの治世」の解説は、「ヨハネス6世カンタクゼノス」の解説の一部です。
「皇帝カンタクゼノスの治世」を含む「ヨハネス6世カンタクゼノス」の記事については、「ヨハネス6世カンタクゼノス」の概要を参照ください。
- 皇帝カンタクゼノスの治世のページへのリンク