皇帝への即位まで
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/01 16:03 UTC 版)
後に煬帝と呼ばれることになる楊広は、文帝楊堅の次男として生まれる。文帝により隋が建国されると晋王となり北方の守りに就き、南朝の陳の討伐が行われた際には、討伐軍の総帥として活躍した。この時、初めて華やかな南朝の文化に触れ、当地の仏教界の高僧達と出会ったことが後の煬帝の政治に大きな影響を与えたようである。591年には、天台智顗より菩薩戒と「総持」の法名(居士号)を授かり、智顗に対しては「智者」の号を下賜している。 煬帝の生母の独孤伽羅は一夫一妻意識が強い匈奴独孤部の末裔出身であったため、「自分以外の女とは関係しない」と文帝に誓わせている。また文帝自身は質素倹約を是としていた。ところが、煬帝の兄で皇太子の楊勇は派手好みで愛妾を求め、正妃を疎かにしたため、特に皇后に嫌われた。この状況を煬帝が利用して自ら側妾を持たず蕭妃だけを愛しているように装うと共に、腹心の楊素と張衡らによる文帝への讒言を行って楊勇を廃させ、皇太子の地位をいとめた。 604年に文帝の崩御に伴い即位したが、崩御直前の文帝が煬帝を廃嫡しようとして逆に暗殺された、とする話が根強く流布した(『隋書』「后妃伝」でも言及している)。
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