皇帝の数
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/22 16:00 UTC 版)
一説には、秦朝から清朝まで、小国の支配者を含めて557人の皇帝がいたとされる。李自成、黄巣、袁術らのように、皇帝を自称して自ら帝国を建設し、既成の皇帝の正統性に対抗して政権転覆を図ろうとする者もいた。著名な皇帝としては、秦朝の始皇帝や漢の高祖や武帝、隋の文帝、唐の太宗、元のクビライ、明の洪武帝や永樂帝、清の康熙帝が挙げられる。 皇帝の言葉は「聖旨」、布告書は「上諭」と呼ばれた。理念上、皇帝の命令は直ちに実行されるべきものであった。皇帝はあらゆる平民、貴族、皇族の上位に置かれ、皇帝に話しかける際は、近親の皇族でさえ常に儀礼的でへりくだった言葉を用いた。 しかし現実には、皇帝権限の大きさは皇帝や王朝により異なっていた。概して、中国の朝代循環(英語版)では、王朝を建国した皇帝は、通常専制政治によって帝国を統一的に支配した。例えば秦の始皇帝や唐の太宗、元のクビライ、清の康熙帝がそうである。これらの皇帝は、治世を通じて絶対君主として君臨し、中央集権的国家権力を保持し続けた。一方、宋では、皇帝の権力がかすむほど宰相の力が強かった。 謀反で退位する場合を除き、皇帝の地位は常に世襲され、通常は長子相続によった。その結果多くの皇帝は幼少期に帝位を世襲した。皇帝が未成年者の間は、皇太后(皇帝の母)が大きな権限を握ることになった。事実、中国の帝政史を通じ、女性の支配者の大半は、息子の名代として摂政となり権力を得ている。著名な例に漢の呂雉や、ともに摂政として一時期共同統治した清の西太后と東太后がいる。皇太后が政治的に弱く権力を掌握できない場合は、廷臣が支配することがしばしばあった。宦官は、しばしば皇帝がそのうちの数人を腹心として信頼し、多くの朝廷文書を閲覧する権限を与えたため、権力機構の中で重要な役割を担った。宦官が強大な権力を握った例もいくつかあり、明の魏忠賢は、中国史上最も強力な権力を握った宦官の一人である。また他の貴族が摂政として権力を掌握した例もある。中国の皇帝が実効支配した地域の大きさは、王朝により異なる。南宋時代のような場合、東アジアの政治権力は、事実上いくつかの政権に分割されていたが、それでもなお君主は唯一人しか存在しないとする政治的虚構が維持された。
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