皇帝の擁廃立とは? わかりやすく解説

皇帝の擁廃立

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/07/21 03:05 UTC 版)

サイイド兄弟」の記事における「皇帝の擁廃立」の解説

同年9月ファッルフシヤルはついにサイイド兄弟らに我慢ができなくなり軍務大臣フサイン・アリー・ハーンに宮廷出仕するよう命じた。この時、フサイン・アリー・ハーンはデカン総督としてデカン地方長期軍事遠征滞在していたが、11月ひとまず帝都に戻ることにした。 フサイン・アリー・ハーンはこの命令危機感じており、帰還したのちデリー近郊に陣を設け、彼は陣中何度も「もはや自分皇帝家臣はない」、と何度も言ったとされるまた、彼はこのとき反逆明らかにするため、自身太鼓騒々しくたたかせた。家臣太鼓皇帝居城近くたたかせるのは、著しく規律違反する行為であった。 こうして、1719年 2月28日にフサイン・アリー・ハーンは兄アブドゥッラー・ハーンと合流したのち、デリー城制圧し皇帝ファッルフシヤル面会した。アブドゥッラー・ハーンは面会時、皇帝ファッルフシヤルにこう言い放った。 「 「我々が陛下為にあれだけ忠誠つくしたというのに、恩知らずにも、その労に何一つ報いようとせず、悪意疑い裏切り返してくるとは」 」 そして、彼らは帝国あらゆる官職要求しファッルフシヤル恐ろしくなり、ハーレムへと逃げ込んだサイイド兄弟追いかけ屋上の隅に隠れていた皇帝引きずり出し廃位したのち盲目にしてデリー城幽閉した。 サイイド兄弟ファッルフシヤル廃位した日、新たな皇帝ファッルフシヤル従兄弟であり、バハードゥル・シャー1世三男ラフィー・ウッシャーン息子ラフィー・ウッダラジャート即位させた。ファッルフシヤル廃位されたのち、脱出計画発覚したため、4月29日サイイド兄弟の命によりデリー城殺された。 同年3月ラフィー・ウッダラジャートはフサイン・アリー・ハーンとマラーターとの間に結ばれた条約追認した。バーラージー・ヴィシュヴァナート条約承認されたのちに帰還したが、彼と随行したサルダールらはムガル帝国弱体化を目にし、デカン越えて北インド侵略考えようになった。彼は北インド侵略しようとはしなかったが、デカンチャウタサルデーシュムキー効率的に徴収するため、サルダールらにその地域割り当てて足場固めた同年6月6日サイイド兄弟皇帝ラフィー・ウッダラジャート廃位し、その兄ラフィー・ウッダウラ帝位に付けた。同月13日、彼らはラフィー・ウッダラジャート殺害した同年9月19日サイイド兄弟皇帝ラフィー・ウッダウラ殺害し同月29日新たな皇帝ムハンマド・シャー即位させた。

※この「皇帝の擁廃立」の解説は、「サイイド兄弟」の解説の一部です。
「皇帝の擁廃立」を含む「サイイド兄弟」の記事については、「サイイド兄弟」の概要を参照ください。

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