皇帝の妃として
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/18 06:43 UTC 版)
193年にセウェルスはいち早くローマに入り、皇帝として認定された。しかし彼にはまだペスケンニウス・ニゲル、クロディウス・アルビヌスなど敵対する者がおり、セウェルスはこの敵と戦わなくてはならなかった。ローマに留まり夫の帰りを待つのが普通だった当時の女性とは違い、彼女はこの一連の軍事行動を夫とともにした。こうして皇帝である夫の陰での実力者として彼女は絶対的な政治力を持つようになった。 皇帝就任後もセウェルスは外征が多く、ローマで影響力を振るう彼女の存在を元老院は歓迎しなかった。彼女はさしたる理由もなく不義・国家反逆罪の咎で告発され、皇妃として彼女はこのような政敵と対峙せねばならなかった。しかしセウェルスは妻に対する態度を少しも変えることはなかった。
※この「皇帝の妃として」の解説は、「ユリア・ドムナ」の解説の一部です。
「皇帝の妃として」を含む「ユリア・ドムナ」の記事については、「ユリア・ドムナ」の概要を参照ください。
皇帝の妃として
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/05/09 20:31 UTC 版)
「ポッパエア・サビナ」の記事における「皇帝の妃として」の解説
歴史家タキトゥスの彼女に対する見方は厳しく、野心があり、非情な女性と述べている。ポッパエアはネロに近付きたいがために、オトと結婚したと言い、またネロの母小アグリッピナの殺害をネロに後押ししたのも彼女だと言う。62年にブッルスが死去、後任のプラエフェクトゥス・プラエトリオの1人ガイウス・オフォニウス・ティゲッリヌスと組んでルキウス・アンナエウス・セネカを政界引退へ追い込み、ネロと妻クラウディア・オクタウィアの離縁に反対する人物が退くと、ネロはオクタウィアを離婚し、さらに自殺させた。ポッパエアはその年の内にネロと結婚し、娘が1人生まれた。ネロの喜びは大きく母と娘に「アウグスタ」の称号を与える。しかし娘は数カ月のちに夭折した。 皇帝の妻としての彼女の評判は良くない。前述のタキトゥスはもとよりキリスト教会の資料でも、この頃のキリスト教を迫害したのはネロではなく、ポッパエアがネロを動かしていたのだとするものもある。しかしユダヤ教徒の歴史家フラウィウス・ヨセフスは、彼女をとても信仰厚い女性だと記述している。この記述の差異は、当時ローマ社会で起こっていたギリシア人とユダヤ人の対立が原因で、彼女はユダヤ人社会の保護者であったという説もある。 ポッパエアは65年に死去した。ネロは悲嘆にくれ、彼女の遺体は火葬には付されず、中には香料を詰められ香油に漬けられたと言う。しかしスエトニウスによると、第2子を懐妊中にネロが戦車競技からの帰還が遅いことをなじって口論となり、ネロに下腹部を蹴られたのが死の原因とされる。タキトゥスの年代記では、幾人もの史家がポッパエアはネロに毒殺されたと伝えていると書かれている。タキトゥス自身は「ネロはポッパエアを熱愛していたし、何より子供を欲しがっていた」として、スエトニウスと同じく夫婦喧嘩からの事故死説を採っている。 因みに最初の夫ルフリウス・クリスピヌスはポッパエアの死の同年にネロによって追放され、翌66年に処刑されている。ポッパエアが産んだ同名の息子ルフリウス・クリスピヌス(生年は50年もしくは51年)も66年に釣りの最中にネロによって15歳で処刑され、ポッパエア直系の血筋は絶えている。
※この「皇帝の妃として」の解説は、「ポッパエア・サビナ」の解説の一部です。
「皇帝の妃として」を含む「ポッパエア・サビナ」の記事については、「ポッパエア・サビナ」の概要を参照ください。
- 皇帝の妃としてのページへのリンク