代打エディ・ゲーデル
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/03 23:26 UTC 版)
「1951年のメジャーリーグベースボール」の記事における「代打エディ・ゲーデル」の解説
クリーブランド・インディアンスのオーナーであったビル・ベックはこの頃にはセントルイス・ブラウンズのオーナーであった。父がシカゴ・カブスの球団社長だったので、子どもの頃から野球選手が家によく来て、ジョン・マグローもシカゴに来るたびにベック家を訪ねていたという。父が1933年に亡くなるとベックは大学を中退してシカゴ・カブスの球団職員となり、球場で売り子もしていた。この時に直接観客の生の声を聴いたことが後年大いに役立ったと言われる。リグレー・フィールド名物の外野フェンスの蔦は彼のアイデアであった。その後にマイナーリーグの球団経営者となり、「豚のプレゼント」「花火大会」「球場結婚式」「早朝試合」などのアイデアを次々と実行した、戦後はインディアンスのオーナーとなり、ロビンソンに続いて黒人のラリー・ドビーをアメリカンリーグ最初の黒人選手として採用し、そして42歳になっていたサッチェル・ペイジと契約して入団させて、インディアンスの観客動員数の最多記録を作り、そしてこの年にセントルイス・ブラウンズのオーナーになると早速ニグロリーグに戻っていたサッチェル・ペイジを呼び寄せていた。しかしブラウンズはカージナルスに比べると不人気で観客動員数が低く、さまざまな振興策を考えねばならなかった。そこでふと思い出したのは、昔、父をよく訪ねていたニューヨーク・ジャイアンツのジョン・マグロー監督がかつてエディ・マロー選手を使っていたことだった。このチビの選手は身長が低いのでよく四球を選んでいたのだった。そこで秘密裡にこうした選手を探し始めた。 そしてこの年8月18日、セントルイスのスポーツマンズパークでのブラウンズ対タイガース戦のダブルヘッダー第1試合の1回裏、ブラウンズのザック・テイラー監督は先頭打者ソーシアが打席に就くことなく代打を球審エド・ハーリーに告げた。『一番ソーシアに代わり、代打エディ・ゲーデル、背番号8分の1』。エディー・ゲーデルと紹介を受けて出てきた選手は背番号1/8を付けた身長1m2センチ、体重30キロで小さく小学1年生並みの身体の大きさであった。持って出たバットはどう見ても玩具のバット。ハーリー主審はテイラー監督のところに行き「おいザック。何を企んでいるんだ? 冗談はよせ。」と言うと監督はゲーデルの選手契約書・リーグ選手登録許可書・当日の参加選手登録書を見せて全てゲーデルの名前が入っていることを主張した。主審は渋々引き下がりプレーを宣告した。 ゲーデルはベックが教えたようにバットを横にして寝かせるような構え方をするとタイガースのボブ・スイフト捕手は仕方なく両膝を地面に着けて精一杯低く構えた。この時の規定に定められた正規のストライクゾーンは上下1インチ半(約3.8センチ)でしかなかった。そしてタイガースのボッブ・ケイン投手は本気でストライクを取りにボブ・スイフト捕手のミットに目がけて投げたが2球とも入らず、諦めてスローボールを投げてみたが、これも入らず、結局ストレートの四球ということになった。ストライクなど投げられるものではなかった。直後に代走が送られてゲーデルは退いた。この間1万8,000人の観客は一幕の喜劇に笑い転げていた。そして翌日の新聞は「ベックの奇策成功」とあったが、アメリカンリーグ事務局から神聖な野球を愚弄するものとして警告状が届いた。そしてフォード・フリックとウィル・ハリッジの両リーグ会長はビル・ベックを批判した。 この奇想天外な作戦は1回限りで終わったが、ゲーデルは100ドルの報酬を手にして有名人になった。そして10年後の1961年6月18日に不慮の死を遂げ、その時にニューヨーク・タイムズは一面に追悼記事を掲載し、それを見てビル・ベックは「彼の名が不滅のものになった」と述べ、この時の対戦相手であったボップ・ケイン投手はエディー・ゲーデルの葬儀に参列した。彼の名前はメジャーリーグの記録に生涯通算1打席1四球として残った。
※この「代打エディ・ゲーデル」の解説は、「1951年のメジャーリーグベースボール」の解説の一部です。
「代打エディ・ゲーデル」を含む「1951年のメジャーリーグベースボール」の記事については、「1951年のメジャーリーグベースボール」の概要を参照ください。
- 代打エディ・ゲーデルのページへのリンク