今村均による若き日の山中
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「山中峯太郎」の記事における「今村均による若き日の山中」の解説
山中と陸士19期の同期生である今村均が、回顧録で若き日の山中について詳しく述べている。 山中は陸士に18期として入校したが、脚気を病んで自宅療養を余儀なくされ、1期遅れの19期となった。しかし、今村によると、19期が陸士に入校した時期の山中はすっかり健康を回復しており、大柄な体躯で良く肥えており、丸顔で、度が強い近視の眼鏡を常用していた。 今村によると、山中は大阪陸軍幼年学校・陸軍中央幼年学校本科の双方を首席卒業した俊英であり、ドイツ人の教官と対等に会話できるほどの独語力を持ち、陸士19期の入校初日から、候補生たちの注目の的であった。 陸士の教育課程について行くためには、規定の自習時間には、時間を惜しんで教科書を勉強せねばならない状況であるのに、山中は自習時間に常にドイツ語の本を開いて何かをせっせと書いていた。陸士の自習室で、今村は山中と席が近く、山中の様子を見ることができたのであるが、同期生たちは山中がドイツ語の本を読んで何を書いているのか不思議に思っていたという。そして、山中がペンネームを使って大阪毎日新聞の懸賞小説(今日の小説新人賞)に翻訳小説を応募して第1位を獲得したことが候補生たちに知れ渡った。その直後、今村は、山中のベッドの藁布団(マットレス)がひっくり返され、何冊かのドイツ語の本が発見・没収されたという話を聞き、山中が自習室でせっせと書いていたのは、くだんの翻訳小説であったのだろう、と理解した。この件について山中が処罰を受けることはなく、山中の行動には何の変化もなかった。 今村は下記のように記している。 ”あんな天才的秀才だから、区隊長や週番士官もあれ〔山中〕だけは特別扱いにしているのかも知れない”と、思わしめられた。 — 今村均。〔〕内は引用者が補充、 山中は、毎日の夕食後、陸士の校庭で30分ほど、キリスト教の説教をしており、何人かの候補生が常連となっていた。当時の陸軍には、キリスト教を白眼視する雰囲気があった。それなのに、規則づくめの陸士の中で、他の候補生にキリスト教を説く山中の勇気に、今村は感嘆した。今村は山中の人となりに関心を強め、山中とじっくり話をしてみたいと願ったが、陸士を卒業するまで山中と話す機会を得なかったという。 陸士では教官・中隊長・区隊長が候補生たちの教育にあたっていたが、候補生ともっとも近いのが区隊長(陸士の卒業成績が上位で、5年から6年の隊附勤務を経た青年将校が任じられる)であった。区隊長は、担当する候補生について約1/3の科目の採点を行い、候補生の陸士卒業成績(陸軍将校としての将来、特に「陸大受験の機会を得られるか否か」を左右する)に対し、最大の影響力を有していた。そのため、区隊長の一部には「職務権限」を濫用し、担当する候補生に威圧的に接し、些細な理由で暴力を振るう者がいた。 成績優秀な山中は、担当の区隊長であるN中尉に当初は一目置かれていたものの、次第に疎んじられるようになった。陸士を卒業する1か月ほど前、教練の最中にN中尉と山中の間で諍いが起き、他の者が見ている前でN中尉が山中を殴る事件が起きた。ただし、隠していたドイツ語の本を発見・没収された時と同様、山中が処罰されることはなかった。 今村が「小学校以来首席をはずしたことがないと云われる秀才」と評した山中は、陸士卒業の際は恩賜を逃した。しかし山中は、陸士19期の先陣を切って、ただ一人、少尉で陸大入校を果たした。 1968年(昭和43年)に死去した今村は、1966年(昭和41年)に死去した山中と晩年まで親しく交際していたが、山中が陸大を退校させられ、陸軍を去った経緯については、下記のように記している。 が、教官より図抜けている才能が教官多数の嫌忌を招いて半途で退校させられると、すぐに朝日新聞に迎えられ、時の孫逸仙氏の支那革命に関する彼の記事は断然他の新聞には見られない異彩をあらわした。 — 今村均、 陸大27期首席の栄誉に輝き、陸士19期の出世頭として、現役の陸軍大将・第8方面軍司令官で昭和20年の敗戦を迎えた今村が、山中の頭脳に畏敬の念を持っていたことが分かる。
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