什物・文化財
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阿弥陀如来像(あみだにょらいぞう) 本堂内陣須弥壇上にある本尊で、高さ3尺(約91センチメートル)。安阿弥(快慶)の作といわれ、松平親氏の寄付であったという。 弁財天十五童子像(べんざいてんじゅうごどうじぞう) 16世紀頃(室町時代後期)の製作、掛幅装・絹本着色、縦94.5センチメートル・横39.9センチメートル。本図では、画像中央上部に岩座上に座る弁財天が大きく描かれ、その右脇に小さく大黒天、弁財天の下には十五童子とよばれる眷属とそれに関連したモチーフが左右に振り分けて配置されている。一部の彩色および墨線に後年の補筆が認められるほかは、織り目の粗い画絹、暗く濁りのある彩色、金泥の文様表現の特徴などが本図が室町時代後期に成立したことを示している。1972年(昭和47年)2月24日、『弁財天の図』として豊田市指定文化財に選定されている。 阿弥陀三尊来迎図(あみださんぞんらいごうず) 室町時代前期の製作と推測される。 念仏行者現生護念之図(ねんぶつぎょうじゃげんしょうごねんのず) 江戸時代末期から明治時代にかけての製作で、木版手彩色、作者は北邑桃渓。 釈迦三尊像(しゃかさんぞんぞう) 1922年(大正11年)製作、紙本墨画、作者は香岳。 高月院文書(こうげついんもんじょ) 室町時代末期から江戸時代にかけての製作。6点あり、巻子本1巻、3通、31冊に分類される。1972年(昭和47年)2月24日、豊田市指定文化財に選定されている。 名称員数概要松平道閲の寄進状 1巻 下記の松平道閲安堵状1通、松平道閲寄進状1通、松平信長売券2通をつなげて1巻とする。 松平道閲安堵状 1通 縦28.6センチメートル、横32.2センチメートル。大永三年正月十一日(1523年1月27日)の日付が記される。 松平道閲寄進状 1通 縦28.6センチメートル、横48.0センチメートル。大永七年正月吉日(1527年)の日付が記される。松平長親(道閲)は、下記の大永2年と大永4年に松平隼人佐(信長)から購入した土地を含めた12項目にわたる土地を高月院に寄進している。 松平信長売券 1通 縦28.6センチメートル、横32.0センチメートル。大永二年三月十三日(1522年4月9日)の日付が記される。 松平信長売券 1通 縦28.6センチメートル、横28.8センチメートル。大永四年正月十一日(1524年2月15日)の日付が記される。 板倉伊賀守勝重書状 1通 縦30.3センチメートル、横46.3センチメートル。徳川家康の命を受けた板倉勝重が寺領として本院に100石を施入した際の寄進状である。年号は記載されていないが、1601年(慶長6年)にしたためられたと推定される。 紫衣着用許可の綸旨 1通 縦33.7センチメートル、横52.8センチメートル。1701年(元禄14年)に東山天皇が当院第18世聖誉天及に差し出した綸旨で、内容は紫衣の着用を許可するというもので、薄墨色の紙に書かれている。 東海道人馬朱印状 1通 縦35.2センチメートル、横16.0センチメートル。1701年(元禄14年)に江戸幕府から到来した朱印状で、これにより当院住持が東海道で江戸まで下向するときは人足8人・馬5疋を用いることが許された。 恢誉上人御代日鑑 30冊 縦24.7センチメートル、横17.2センチメートル。当院第26世の恢誉善隆が記した寺日記で、期間は1818年(文政元年)から1853年(嘉永6年)まで。当時の世情を知る貴重な史料とされる。 村々百姓騒立諸事日記 1冊 縦24.8センチメートル、横17.5センチメートル。当院の役僧であった人物による、1836年(天保7年)に加茂郡で勃発した加茂一揆の見聞録。
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